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2013年9月

2013年9月26日 (木)

ずいぶん、ね

この夏の気象の異常さもあってか(とはいっても、あくまでも、それは人間にとってでのことで、地球自体は自然なんだけどね)、カラダのほうのダメージはほぼ限界に達した。トドメが良性発作性頭偏位目眩症とかで、ともかく動くとクラクラになるんだから、始末が悪い。宿痾の鬱症と、過敏性腸炎、眼精疲労に、とにかくもうこれ、老化よ老化。
とはいえ、やるべく仕事はつい昨日、avecビーズの再来年の作品『twilight at time この黄昏よ』を仕上げて、これでオシマイ。今日は、『恋愛的演劇論』の編集校正の検討(著者校正は一応すんでいる)と、出版契約をして、再校正して上がり。
こいつは自費出版で300冊買い取り。遺品ですから、いろんな方々に贈ります。
11月末から始まるシス・カンパニーの『グッドバイ』は、長年やりたかった太宰治さんの戯曲化。(これ、『日本文学シリーズ』になっちゃったから、次と次の次の三作、書いちゃったけど。続くんなら、やるだけやるけど)こんで、もう、やるべきことはオシマイ。アトは余生。「余生(よせ)やいっ」とでもいいたくなるような余生。どれだけ余ったのか、自分ではワカラナイが、で、何をやるかというと、嫁の提案で、あの壁を素手でよじ登るアレ、なんとかいうらしいけど、アレやりてえな。私の勘では、あれ、力じゃなくて、バランス感覚で登るんじゃナイかな。ヒマラヤにのったりひょこっと、歩いて登山するのも、老人の趣味ならば、こっちも初期高齢者の趣味よ。どうせ、カラダは半壊状態なんだから、残り半分でやりゃあ、いいんじゃないの。
現在は、脳死状態かなあ。脳なんか死んでも、文章くらい書けるのよ。しばらく脳のほう、死んでおこうっと。
さてと、このアトは、『寿歌Ⅳ』の演出。これは脳なんかあんまり使わない。カラダ使うから。最近は「脳で書かれたお芝居」が多すぎんのなあ。オリザなんかは「私は指先で書きます」っていってたけど、うん、それは立派だと思うよ。私は「眼と耳」で書くけど。
「戯曲とはココロの業、天を読み、風を嗅ぎ、地の音を聞く、森羅万象 おのが意のまま げにおそるべし おそるべし」よ。

2013年9月 2日 (月)

吉本さんの演技論に半畳入れる

吉本隆明さんの著作『見えだした社会の限界』(コスモの本・1992年)を何気なく本棚から抜き出して、目次に自分で○をつけたところがあったので、再読してみた。どんな理由で○をつけたのか記憶していないが、○をつけたのは、「8 日本文化の現在 芸能人」の部分だ。出版された年代が古いので、話題も古い。いまさら持ち出すことでもナイとは思ったが、書かないと気がすまぬという思いのほうが強くて、眠れそうにもナイから、書いておく。
話題は、勝新太郎のコカイン・大麻所持逮捕から始まる。大筋は古いからまあいいや。
/文学に立場があるとすれば、たったひとつしかない。社会的な悪も法律的な悪も、文学は包み込んで成り立っているということた。/
というのは、いつもの吉本節だからしょうがナイ。しょうがナイというのは、本質的にそうであっても、情況的にはいまの時代にこのいいぶんはもう通用しないだろうということだ。少なくとも、いまの若いひとたちにとって、いまの時代はまったく「本質的」ではなく「情況的」だからだ。しかし肝腎なのは、そんな難しい話ではナイ。吉本さんは話を脇道にそらすとして、
/わたしは勝新太郎や森繁久弥の芸は、一通りの意味で立派だといえるとおもう。だが、あれはいわば臭い演技だ。いいかえれば凄まじい自己肯定からできている演技だ。強烈な個性的な演技のようにみえるかも知れないが、いつでも頭打ちされた停滞の感じをみるものに与える。自分を相対化する演技を工夫しないかぎりは、あれでおしまいだとおもう。一連の「座頭市」ものなどけっして本人がかんがえているほどいいものではない。またいい演技ではない。(中略)ひとは誰でも年齢をとるにつれて、自分がイメージしている通りの表情や振る舞い方になってしまうものだ。(中略)わたしは俺は何でもないという表情や振る舞いをするような自己イメージを作ろうとしてきた。そんな理想からいうと、勝新太郎や森繁久弥は自己イメージを誇大にとりすぎているようにしかみえない。(中略)自分のイメージを自分より低く演技できなくなったら、芸能人としては終りだとおもった方がいいとおもう。(中略)麻薬に中毒しなくても、中毒するものはどこにでも転がっているのが現在だ。自分のイメージに対する演技もまた、そのひとつだとおもう。/
中略して引用したが、骨子はハズレていないはずだ。
まず、このエッセーは、通常の日常人が何かを演じている状態と、演技者が役を演じていることとをごちゃまぜ、つまり錯合させていて、吉本さんにはめずらしく、論理がちぐはぐしている。「臭い演技」が「凄まじい自己肯定」から出来ていて、それは「いつでも頭打ちされた停滞の感じをみるものに与える」ので、もっと自分を相対化する演技を工夫しないといけない、その例が『座頭市』だということになるのだが、成り金の会社の社長が、それなりの自己イメージを実体化して振りまいているのと、演技者が役のイメージを実体化しているのとは、何の関係もナイ。いうなれば似て非なるものだ。たとえば、時代劇を演技する演技者は、「凄まじい自己肯定」を以て、「臭い演技」をしなければ、そもそも成り立たないといってイイ。時代劇というのはそういうものだ。「自分を相対化する演技の工夫」とは、吉本さん、『言語美』で批判していたブレヒトの異化効果を、これじゃあ、宗旨がえして肯定しているではないか。演技者(役者)ほど自我の強い人種が、自己を相対化などするワケが(出来るワケが)ナイ。演技者は自己と役とを「反復」させ「反省」しながら演技している。そこでゆるがしようのない素材の自己を相対化などしていたら、いつまでたっても役にはなれない。『座頭市』のようなシリーズもので、途中から座頭市のcharacterを変えることなど無理な相談だ。「頭打ちされた停滞」をマンネリといいかえれば、大衆は、そのマンネリこそを安心して享受しているというべきだ。
自分のイメージどおりの表情や振る舞いをするのは、年齢のせいではナイ。ひとには、いつでも「自分はこうありたい」というイメージがあり、そうであるように努めるのだが、そうならないところで、常に挫折に苛まれるものだ。その挫折と和解して老いていくか、意地だか反抗だかワカラヌが、その営為を続けていくアホ、バカ、の類もまた在るのだ。差し詰め、私などは、そのいい例だ。けれど、後悔はしない。後悔して、いまさら自己を相対化し、「俺は何でもない」イメージをつくっても、世間のほうがそれを許容してくれないことくらいは、齢を重ねて学んできたからだ。

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