マスク・THE・忍法帳-41
陳竜の骸がすぐ傍らの弥勒教団専有墓地に埋葬されている。両手を腰の後ろに回して軽く握り、その様子を薄く目を開いてみつめながら微動だにせず立っている檜垣に、黒菩薩の平組織員から伝達が走り込んだ。いまならさしづめ携帯電話が鳴ったことだろう。伝達者に対して、檜垣は、小さく「うむ」といっただけだ。
最後の刺客であるおりんの姿がみえないと、伝達者は告げたのだ。
最早、檜垣はおりんに期待など寄せてはいなかった。おりんの技が如何なるものかも檜垣も心得ている。二十面相に勝てないこともナイだろう。しかし、相も変わらずそれは五分五分といったところである。やはりあの男は己が風閂で血祭りにしなければ終わらないのかも知れない。しかし惜しい。あれだけの手練、そしてそのバックにどれだけの者が彼と組みつるんでいるか。それを考えると、これからの組織には是非とも必要な人物だ。
と、チリンと小さな鈴の音が聞こえた。振り向くと、おりんが養女にしている娘の千絵である。まだ十六のあどけない顔がそこにあった。
「千絵女か、何か」
「婆さまが出ていかれました」
「いま部下から聞いた」
「もうもどることはナイと、私に申されました」
「そうか」
「ただ、相手も、檜垣さまの望みどおりにと申されました」
何処にそんな自信があるのだろう。
「生死のほどは保証しかねるが、と」
「そうか」
「もし、檜垣さまが、このコトをお聞きになって、訝しげな顔をされたら、こう申せとお聞きしました」
「何だ」
「陳は未だ敗れたことのナイ刺客。もし、倒されるようなことがあっても、相手にそれなりの報復は仕掛けてあると」
「報復・・・」
初めて檜垣は、その訝しげな顔というものをみせた。
陳の毒殺の技は門外不出のものばかりで、配下に毒の教育をしていても、自身が闘う時にそのような毒を用いた試しはナイ。ひょっとすると、何か死に際に、二十面相に対して悟られぬような一撃を仕組んだのかも知れない。何れにせよ、おりんとの最後の闘いに吉報を待つまでだ。
長屋にもどって平吉は、いつもより激しい疲労をおぼえた。それは看護婦の葉子にうったえねばならないほどのものであった。葉子はとりあえず、ビタミン注射だけをして、診察を勧めたが、平吉は、しばらく横になると蒲団に入った。
一時間ばかり、寝汗をひどくかいて、起き上がったが右肩から右腕、さらに指の先までの感覚が失われている。これはどうしたことだろう。思い当たるのは、陳との闘いの際に何かヤラレタということだけだが、記憶はナイ。平吉は葉子の勤める病院まで出向いて診察を受けたが、原因がワカラナイ。ただ感覚のナイ部分の神経がマヒしていることには間違いはない。次いで毒物の検査を受けたが、それらしき痕跡はあるが特定が出来ないという結果であった。やはり、陳が死に際に何か仕掛けたに違いない。とりあえず、幾種類かの解毒剤を静脈注射すると、病院を出た。
昭和二十七年の東京は、いまだあちこちに戦争の爪痕である空き地がごろごろと、その姿を残している。空襲の際に直撃弾を受けて、地面に大穴が開いたのを更地にしたのがそのまま放ってあるのだ。片隅にはやがて下水工事に使用されるのであろう、コンクリート製の土管が積まれていたりする。その寂しい道を歩きながら、平吉は考えていることが一つあった。たしかに右腕の感覚を喪失させたのは陳の毒に違いない。しかし、何故、彼は右腕だけに毒の効果を留めたのだろうか。そんな隙があったのなら、死に至らしめる毒も用いることが出来たはずだ。これはけぶなことであった。
冬の終わりの冷たい夕陽が長い影法師をつくる刻、平吉は空き地に積まれた土管の上に老婆がチョコンと座っているのを観て、足を止めた。殺気を感じたからではナイ。その光景が異様といえば異様であったからだ。老婆は分厚いどてらを身に纏っていた。そうして紫の風呂敷包みを抱いていた。異様というのは、それ以外、身につけているものがなかっからだ。つまり、どてら一枚の下は襦袢でも他の肌着でもなく、裸体だった。老婆は平吉を観ると、歯のない口を開けて笑った。もちろん、声には出さない。破顔をみせたというのが正しい。
老婆は、一瞬にして土管から消え、一瞬にして空き地の瓦礫に腰掛ける姿で現れた。飛んだらしい。おそらく常人にはワカラナカッタろう。しかし、平吉の動体視力は群を抜いている。
「婆さん、おんしで、終わりくらいかの」
と、平吉は、もう殺し合いは厭きたというニュアンスをいっぱいにして、老婆に問うようにいった。
「風閂の檜垣を勘定に入れなければ、わしで終わりじゃ。檜垣はおまいを生け捕りにせよというておったが、わしの腕では無理じゃ。おそらく朱色も陳もそう思うたに違いない。しかし、よほど運のいいヤツよのう、遠藤平吉。陳が最後に用いた毒はおまいの命をば、奪うはずじゃったが、おまいが武器に使ったのが唐辛子だったのが、おまいの運の良さというべきじゃろ。唐辛子の主成分はカプシサイシン。これは、脳内物質のアドレナリンの分泌を促す。これには強心作用がある。それが毒の効果を少々打ち消したようじゃわ。知らんかったじゃろうが、よくぞまあ生き残った」
なるほど、そういうことだったのか。平吉は納得がいった。亀の甲タイプ、三環系化学式はワカラヌが、泥棒道具の唐辛子がここに至るまで自分を助けるとは、思っていなかった。しかしながら、その平吉の右手は風邪に吹かれる柳の枝のようにただぶら下がっているだけだ。
「さて、わしにも術やら技はある。じゃが、おまいには到底、かなわぬじゃろ。ここはこのおりん婆、最期の闘いじゃ。それらしゅう、闘おうて」
おりんは、紫色の風呂敷包みをほどいた。中から匕首が二本。
「好きなほうをとりなされ。ちょうど右手が使えんのがハンデというもんじゃ」
そういうと、今度は袖から連鈴とでもいえばいいのか、連なった鈴を一房取り出した。そうして、それを軽く振りながら念仏のようなものを唱和し始めた。鈴の音は硬い。唱えているのは歌のようでもあるから御詠歌かも知れぬ。
平吉は老婆に近づくと、匕首を一本、取って抜いてみた。どこにも細工はナイ。
おりんも匕首を抜いた。片手には連鈴、そのままだらりと構える。御詠歌らしきものは続いている。
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