マスク・THE・忍法帳-43
平吉は泥棒道具の鉄線を取り出した。それを鎖鎌の鎖のように回転させ始めた。これで匕首の攻撃距離に敵が迫ってくることは防げるはずだ。と、その鉄線の動きが止まった。鉄線の先、おりんがそれを握って立っていた。平吉は左手しか使えない。鉄線と同時に匕首を使うことは不可能だ。平吉は鉄線をぐいっと引き寄せた。しかし、手応えがナイ。おりんの姿は消えた。と同時にそれは平吉のすぐ横に現れて、平吉の右脇腹を匕首で刺したのである。
平吉は、すぐさま飛びのいた。匕首というものは刺されただけで死ぬことはナイ。逆刃をそのまま引き上げられるとき、まるで切腹させられているのと同じ、腸を抉られることになる。それを未然に防いだのだ。
「見事じゃの、平吉。されど、この勝負はもうみえておる。冥土の土産によろしきものをみせてしんぜよう」
おりんはどてらをストンと落すように脱ぎ捨てた。全裸の肢体がある。それは老女のものではナイ。若いともいえないが、まだ脂ののった年増の裸体だ。
「不老の術というのがあっての」
と、顔だけは老婆のおりんが、今度は声を出して笑った。
「果心居士より伝わりし、秘術よ」
果心居士、かの伝説の仙術使い。空を飛び、屏風に描かれた船に乗り、信長の時代から江戸末期まで生きたと伝えられる、山岳行者の始祖である。
おりんは匕首を、ぶるんと一振りした。あっという間に匕首が、長ドスに変容した。
なるほど、全ては目眩ましか。平吉は逆に相手の術を悟った。
「上級の手妻というやつかいの。自分からそれを告げるとは、世話ないわい」
平吉は匕首を棄てた。
「どうなさった。負けを認めるのかえ」
と、勝ち誇ったおりんの高笑い。
「いんや、素手で充分」
平吉は、左手一本、拝むようなカタチで差し出した。
如何に幻術の類とはいえ、足と脇腹の傷はほんものだ。闘いが長引くと平吉の不利になるのは目にみえている。
ポタリ、ポタリと、右腕から血が滴る。平吉はその滴る血の音を聞いている。現実はその音だけだ、という平吉の判断である。そうしてまた、その血の滴る音を聞くことによって、自己催眠を行っているのだ。相手のあの連鈴と御詠歌のような念仏唱和は、催眠術の一種らしい。そこで、平吉は逆におのれに催眠術をかけることによって、相手の催眠術から抜け出ることにしたのである。
相手の声は聞こえない。自身の血の滴りだけが、自らの耳に聞こえる。
おりんも、そのことに気づいたとみえ、容易には近寄らない。平吉の衰弱を待つつもりらしい。
平吉が仕掛けた。平吉の二重回しが、その俗称のトンビのごとく翻った。しかし、本体の平吉はそこにはナイ。平吉はおりんめがけて走ると、その二間ばかり手前で、殆ど直角にスライドした。眼前にはおりんが驚愕の眼をして立っている。
「追いついたようだの」
これは、おりんの強がりともいえた。平吉の左手が、おりんの右胸を突いた。突いてそのまま引き戻すと、肋骨が一本、その左手に握られている。
殆ど同時におりんの長ドスが空を斬ったが、平吉は握った肋骨をおりんの額に突き立てた。
「すまんな婆さん、年寄りにやるべき残虐なことではなかったが、あんさんの催眠術から逃れるためには、自分の闘争本能を最大値にせにゃならんかったのよ」
「なんともはや、恐ろしいヤツ」
倒れ伏したおりんのカラダから、紫色の煙が吹き出て空に昇った。どうやら敗北の報せらしい。その全裸のおりんにどてらをかけると、平吉は脇腹を押さえて膝をついた。傷は深くはナイ。しかし、右手に左太股、そうして脇腹。それ以前に陳の毒で右手が不能になっている。まさに手負いである。平吉は土管に背中を預けた。
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