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2013年8月12日 (月)

剰余価値と「消費=生産」、資本 について(続・2)

「価値」を語るにおいて、マルクスの次のコトバ(説)はタイセツだ。
①労働に価値はナイ
②価格は市場で決まるものではナイ。
どちらも、「そんなことはナイだろう」という感じがするだろ。感じがするだけではナイ。帝京大学の経済学の教授による新書には「価格というものは市場で決まるのです」と書かれてある。この教授は世間知に疎いから、同書では「消費者はより安いものを買うべく努力するのです」とノータレている。どっちもウソだ。
とりあえず、①から解説する。労働は尊いものだ、働かざるもの食うべからずだ。というようなことは殆ど常識として語られている。まるで道徳のように。しかし、たいていの庶民大衆は「働かないで食えればなあ」と思っている。でなければ、宝くじは売れない。労働が刑罰だということは、聖書にちゃんと書いてある。(旧約-創世記)。また、「働かざるもの食うべからず」というのも聖書のコトバだ。(テサロニケ後3-10)。①は、こう書き直すとワカリヤスイ。「労働そのものには価値はナイ」。ワカリヤスクなったか。さらにいうならば、価値があるのは労働することによって得ることの出来る賃金であり、その賃金で買える(交換出来る)ものであり、買った(交換した)ものによって創られる自らの生産。これがほんとうの価値なのだ。これを「労働の対象化」という。いまのところ、賃金は貨幣で支払われるから、何か欲しいものと交換するには貨幣だ。ここで、価値は貨幣にあるように私たちは錯覚してしまう。つまり、働かなくても貨幣が手に入るなら、それほど楽なことはナイ。「これだけあれば、一生遊んで暮らせるぞ」と、たいていの二流ドラマに出てくる悪人はいうだろ。「お金では買えないものもあります」と、善人はいうかも知れないが、そんなことを本気でいうのは充分に金のある者だけだ。たしかに銭では買えないものはある。「寿命」、まあ、これはそうかも知れない。とはいえ、癌患者にとっては、自らの余命を伸ばすのは、保険外高額治療(だいたい、月に300万円くらいかなあ)なのだ。「持ってて邪魔になるものではナイ」のが銭だ。「遠くの親戚より近くの友人より、手持ちの銭」のほうが頼りになる。「貧すれば鈍す」だ。だから剰余価値はあればあるだけイイ。ように思ってしまう。しかし「消費=生産」というこのサイクルそれ自体の中に「価値」があるとしたらどうだろう。これは、のちほど考える。
②、価格、つまりものの値段が市場で決まるということは、ナイ。あるとすればテキ屋の商法くらいなものだ。さて、ここに米が一升あるとする。その価格は、その時点で塩一升と同じだとする。また着物一反と同じだとしよう。簡単に記すと
   米一升=塩一升=着物一反
ということになる。と、ここで余談になるが、江戸時代に武士は貨幣で賃金を得ていたのではナイことは、時代劇を観ていればワカル。武士の収入源を俸禄という。俸禄は家禄と職禄の合計で、家禄は先祖の功績によって決められている。これはいわずと知れた「米」で支払われていた。それを「切米」と「知行米」という。切米は、下級武士、御家人の俸給で、現物支給。知行米というのは、旗本など中・上級武士の俸禄で石高であらわす。いわゆる二百石とか、三百石とかだが、これはそれだけの年貢が受け取れる領国の領主になるのと同じことだ。さらに「役高」という職務手当てが付く。たとえば、「知行三百石、役高千二百石」なら、合計の千五百石が俸禄になる。よく時代劇に出てくる三十俵二人扶持とかいうコトバは、切米で、1年間に基本給として米30俵と、追加分の職務手当て二人扶持分が支払われるということだ。
ところで、江戸時代は物々交換をしていたワケではナイ。武士は、頂戴した米を現金化しなければならない。ここに札差と呼ばれる両替商が登場する。(続く)

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