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2013年8月25日 (日)

剰余価値と「消費=生産」、資本 について(続・6)

私は一介の物書き、売文業者にしか過ぎないから、経済学については素人だ。それにかなりトンチンカンな考え方をするので、このアト述べることもその範疇にある。それを承知で持論を展開する。
私は「消費=生産」という等式を、ひとつのサイクルとして取り上げれば、そのサイクル(cycle)は、それ自体が「資本」に転化し得ると考えている。
資本というものは、この「消費=生産」を細工して、剰余価値を生み出させねばならなかった。剰余価値そのものが、商品を抽象化した商品である貨幣として蓄積出来るところに資本が生まれるというのが資本主義の考え方だ。ここにハサミという商品があるとする。このハサミの使用価値は、「よく切れるかどうか」だ。ハサミを生産する場合、まず、ハサミを生産する工場を建てて、生産機械を並べ、研磨器具を並べ、出来たハサミを問屋へ流通するためのトラックを調達し、それらはときおりメンテナンスし、そうしてさらによく切れるハサミといハサミの使用価値を上げるために研究し、といったシステムの中にそれぞれの労働者を配置して、それぞれに賃金を支払わなければならない。マルクスの時代は、この労働時間というものが、重要視された。5時間働くか、8時間働くかによって賃金がチガウ。多い時間働くものはその分、賃金も多くなった。けれども、労働というものがパラレルになった現在、こういう考え方はもう通じない。パソコンの画面を観ながら、一方で需要と生産の市場バランスを計算し、他社製品のカタログを情報収集することも出来る。と、同時に新製品のデザインのプランを吟味することも出来るからだ。そのとき、プリンターはその日の会議資料をprint outしているかも知れない。ともあれ、労働に対しての賃金は、必ず剰余価値が生ずるようにして支払われる。この剰余価値は、投資に充てられる。例のバブルの時代は、経営者がこの剰余をまったくチガウ分野の不動産の売買などに充てて、取り返しのつかぬことになって、崩壊したものが多い。
投資した貨幣より、消費されて(商品として売れて)得た貨幣のほうが少なければ剰余価値は損金になり、さらに投資するためには銀行に銭を借り入れなければならず、この利子が払えなければ、不渡り手形を連発することになってあわれ倒産という羽目になる。しかし、ここに研究(という投資)によって「絶対刃こぼれしないハサミ」という新製品が開発され、これが爆発的に売れた。会社の倒産は救われた。こんな例は実例で多くある。たとえばアース製薬の「ごきぶりほいほい」。宝焼酎の「純」。などは有名なところだろう。
もちろん、これらも剰余価値から転化された研究費(投資)によって生じた商品表現だが、これを「消費=生産」のサイクルから考えてみると、「消費=生産」には「量」と「質」という二つの面があるのではないかという気がしてくる。量としてみれば、「消費=生産」は等式通りのものだ。何かを消費するということは何かを生産していることだし、何かを生産するということは何かを消費していることだ。しかし、消費←→生産がその内部だけで生じつづけるならば、エントロピーの増大で、不可逆的にエネルギーは量だけとなって、やがては飽和状態になり、運動は止まる。「消費=生産」という等式は、額面通りなのだが、この「消費=生産」が個人のコヒーレンス(自己生成)だとすれば、他者のそれとコヒーレントを生じて、いわゆる状態ベクトル(波の重ね合わせ)が起こる。これも双方向に関係する。要するに「消費=生産」を閉じられた系とはみなさないワケだ。これは関係する両者(あるいはさらなる複数)にとって、ひとつの「資本」とみなしうる。

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