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2013年8月16日 (金)

剰余価値と「消費=生産」、資本 について(続・5)

これもまた私なりのコトバでいうと、商品を売買するときの交換価値というのは、商品の「表現」の度合いなのだ。二つの商品の表現をを度量衡で計測しているようなものだ。だから、表現が優れているものほど、交換価値は上がるということになる。たとえば、自動車(car)などはどうだろう。これにも「等価形態」と「相対的価値形態」がある。等価形態として観たばあい、これと何かを交換したければ、同じqualityの表現を持つ車を相対的価値形態としての自動車の中に捜せばイイ。等号で結べれば、交換OKということになる。また、その自動車がどの程度のqualityを持っているのかを調べたければ相対的価値形態としての自動車のcategoryの中で、比較してみればイイ。そこでAランクだと解れば、交換のときは、等価形態と等号で結べる自動車を捜せばイイ。
これはまったく物々交換だが、世の中には貨幣というものがある。だから、交換したい自動車を100万円だと決めれば、貨幣100万円と交換すればイイ。貨幣価値というものはそういうものだ。単なる札束(紙)なのだが、100万円だという誰にも共通の抽象性を保持している。その後、自動車はガタがきて、値打ちが下がるかも知れない。しかし、貨幣もまたインフレで、100万円が50万円に下落することもある。それは商品の表現としての宿命とでもいうものだ。
話をタイトルに副ってもどそう。おさらいをすると、「消費=生産」の等式が正しければ剰余価値は生じてこない。従って世間でいわれる資本というものも蓄積しようがナイ。だから、操作が行なわれる。100円でつくったものを300円で売る。ここに200円の剰余価値が生じる。これを資本という。のが、資本主義の考え方だ。だが、マルクスは、それは間違った考え方だと説いた。およそ資本というものはそういうものではナイといったのだ。それはこういうふうにもいえる。資本主義が間違っているのではなく、資本主義は資本というものを間違っている経済主義なのだ、と。資本主義の資本とは、貨幣だ。それがたとえ金1㎏の塊でも、レートによって換金出来るから資本になる。アメリカにはゴールド・ラッシュという時代があった。山師たちが、金の鉱脈、砂金を求めて一攫千金の夢を膨らませた時代だ。素材だけでいえば、金は単なる鉱物にしか過ぎない。しかし、交換価値の表現がチガウ。やはり貨幣は価値だ。およそどんな商品とも交換出来る。ひとの命よりも価値がある。一発の核で数十万人の命が失われようと、戦争に勝てば、占領して属国とした領土から資源やら労働力(敗戦国民)が得られる。経済的に支配が出来る。要するに銭だ。いまの世の中、銭だ。銭が仇の娑婆世界だ。それはアカンのとチガウか、というふうにマルクスはいいたかったのだ。銭が、公平に行き渡ればイイんじゃないか、という話ではナイのだ。公平にだろうが、不公平だろうが、人間が貨幣に疎外されている世界はダメだと、そういったのだ。では、どうすればイイ。資本というものにおける正しい考えを身につけなければならない。では、「ほんとうの資本」とは何だろう。マルクスが提出した答は、いたって単純なものだ。「資本とは人間そのもの」。だから、共産主義社会というのは、人間が人間をとりもどす社会だと、いっただけだ。人間があるべき人間として生きる社会。これが共産主義社会なのだが、これはかなり大雑把なスキームとしかいいようがナイ。

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