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2013年7月 1日 (月)

必要悪としての集団

ときおり伊丹『想流私塾』のレクチャーの日、どうしようもない徒労感に襲われることがある。要するに「我、笛吹けど汝踊らず」というあのナザレの大工の息子も感じた焦燥のようなものだ。しかし、芥川龍之介はこれに対して『侏儒の言葉』で「我、踊れども汝足りず」とironicalに応えている。確かに、そうなんだろうなあ。諦めちゃそこで終いだからナ。私も若い頃は未熟だったし、いや、いまでも未熟なのだから。けれども、この「未熟」を自覚しているあいだは、私もまだ大丈夫なんじゃナイだろうかという気がする。
演劇というものは、劇団でやろうが、ユニットでやろうが、プロデュースしようが、どうしても集団になる。この集団の力というのは恐ろしい。かつては映画の製作は、監督の名前をもって、たとえば川島監督なら川島組と、たいていが同じスタッフが集合して、阿吽の呼吸で映画を創作した。私もこれに倣って名古屋では、殆ど北村組で仕事した。照明、音響、舞台、衣装、いつも同じにすると、ふつう停滞するのではないかという懸念が生まれるだろうが、それぞれのスタッフの力量が、毎度かえって切磋琢磨して、quality は上昇する。そうさせるように、演出はあらねばならないし、劇作家はそういうホンを書かねばならない。「同じだが新しい」こと。これをそれぞれの進化といわねばならない。
『林檎幻燈』のホンはまだ未熟だ。それは作者に面と向かってキツク叱咤した。いくら幻燈でも、世界が幻そのものであってはならない。世界が「何の幻」かを書かねばならない。現実は常に幻の前に存在する。「現実」という情況・本質をしっかり掴んでいないと、metaphorでmetaphorを描くという勘違いに陥る。このあいだ樋口ミユにいった苦言、提言も同じ。キツクいったのは、作者がこれからも書けるひとだと慮っての老婆心からだ。
ところで、私はどんな芝居でも、殆ど観ない(誤解されぬように記すと、観るのではなく聞いているといったほうが正しい。時々、ちらっと舞台に目をやるだけだ)。そのせいでだと思うが、私にはこの舞台の音響は(たとえ作家が未熟だとしても)、このホンの主題、プロット、モチベーションがまるで読めていないような気がした。要するに姑息に行き当たりバッタリの雰囲気音楽を垂れ流しているだけの気がした。この音響スタッフは、私のホンで同じ演出家によるミュージカル『フロタキコ』では、かなりの力量を発揮していたと記憶しているが「騏驎(麒麟ではナイ)も老いては駑馬に劣る」ほど老いてはいまい。たかだか新人作家のホンと侮って、解するまでホンを読んでいないか(たとえば、ホンの内容が覚えられていないので、ホンをみながらオペレートしてるとか、ナ)、読んでもワカンナかったとか、そんなアホな音響スタッフを岩崎演出が使うワケがナイと思うのだが、具体的に指摘してみると、あのボレロはいくらなんでも、間に合わせたという感じしかしない。また、「林檎」というコトバ、存在、の音響(音楽)が主聴音として通底していないから、構造として重ね合わされた作品のそれぞれのセクターに、共時的にも通時的にも音楽イメージとして残る「林檎」が存在していない。(私の組の音響家なら、その程度はちゃんとやるぜ)。せめて作者が、林檎というモノを透過して、なんとか多重世界を描こうと足掻いているくらいは、作家の未熟さは笑ってもいいが、察してやってよかったのではないか。もちろん、そんなことは先刻承知ならば、音響プランはまったく失敗しているとしか評価出来ない。ともかく流れっぱなしにしか聞こえない音楽は耳障りでうんざりした。というか、もちっとせりふを聞いて音楽出せや、という気がした。(おまえ、何様のつもりだとイキリ立つなら、それでもイイが、私はもう業界に未練はナイが、業界でもちっと長生きしたいのなら、私の戯言も訊いておくべきだぜ)。べつに作家が弟子だからといって、責任転嫁して守ってやっていってるワケではナイ。単なる観客の感想だということは、ハッキリと言明しておく。

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