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2013年7月 2日 (火)

劇作家は何を書いているのか

現代戯曲の先駆者(pioneer)岸田國士はいう。「いいたいことがあるから書くのではナイ。書くためにいいたいことを探すのだ」。この卓見、あるいは定義は極めて深度が深くその範囲も広い。書けないと嘆いている暇があったら、書けるようなことをみつけろ、といわれているようでもあるが、このコトバはその程度のシロモノではナイ。つまり訓示や戒めの励示などではナイ。私たちにんげんは、一個の生命体として世界にある限り、それが原始生命体のアメーバーのようなものであっても、フロイトが指摘したように自己破滅の欲求という無意識を秘めている。そうして、それをさらにおしすすめた吉本さんの『心的現象論・序説』においては、「生命体である限り、生きているというそれ自体において異和を持つという」=「原生的疎外」にさらされている。
この異和は「内在的」なものだ。世界情況(外在的)がどうであろうと、飯を食い、排泄して、飲んで、酔って、寝て、ナニしてと、いかなるにんげんにもついてまわるものだ。およそ、現実と虚構のはざまにあって、表現世界を構築するということは、世界情況や日本がどうであろうと、まず、この本質的な異和を表出しようという欲求から起こり得るものだと考えてイイ。そうしてその表出は劇作家にとってコトバという表現によってなされる。
ところで、その異和が、素直にコトバに出来るなら、そんな楽なことはナイ。おおよそ、「いいたいことがコトバでいえるとは限らない」というところから、私たちのような劇作家は悶々と出発しなければならない。(この原点が、私がウィトゲンシュタイン言語学は演劇には適応出来ないとしている根本のところだ)。劇作家は、たしかにいいたいことはみつける。どういうふうに、「何かワカランもやもやとしたもの」という異和として。そうしてそれを書こうとする。異和の解決のために。つまり、いったん劇作家は内在的なおのれの内部に探査的に降りていかねばならないし、降りていって掘り出したものを、次はまったくベクトルを変えて表現するというところに出力しなければならない。この出力の変数として外在的なものが必要になるのは自明のことだ。同じく吉本さんの『言語にとって美とは何か』に倣って、前者を日記的文学軸とするならば、外在的なそれは説話的文学軸になる。そうして前者をx後者をyとして関数のグラフにしてみると、表現は常に関数座標(x,y)として表される。その両者の成分(dx)/(dy)を調べてみるのに、微分による微分係数を求める(比率を求める)と、その戯曲の日記的な成分と説話的な成分がワカル。また、それをプロットと称して、部分、部分から今度は微分方程式を用いて、全体像をみつけることが出来る。(誤解されているが、「微分」と「微分方程式」とはチガウものだ)。これを私は、「戯曲の、関数(代数)の構造」と名づけた。
それはともかく「いいたいことがコトバでいえるとは限らない」という縛りは、劇作家にとっては、最も苦しむところ、足掻くところだ。そこで、あらゆるメタファーを用いることになる。もともとが分節でナイもの(心的なもの)を分節(表現)にするのだから、打って還って来るメタファーによって、そのコトバの正しさを図るのは、仕方ないことなのだ。これは、岸田センセふうにいうならば、「いいたいことが書けるコトバを探すのだ」になる。おおよそ、劇作家の格闘はそういうものだ。そうしてそれは最初は意図的、意識的になされ、次第に「作者に作者が憑依」して書けるようになるまで続けられる。意図的、意識的に書いてるあいだは、まだまだダメなのだ。ようするに、書くのはしんどい。しかし、およそ囲碁、将棋、にせよ、ゲームとして楽しんでいるあいだはアマチュアで、プロは勝負の神が降りて来ることを僥倖としているのはマチガイない。

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