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2013年4月13日 (土)

黄昏への帰還⑩-自殺病などという病気はナイ-

私が吉本学徒である理由は、その思想のromanticismにある。これはCamusの文学がもつhumanismが好きだということと通底し、太宰のクソマジメで果敢な覚悟の文章の上手さに傾倒し、安吾のハッタリの勇気に共感するwaveとして、私のコヒーレンスの構造になっている。さらには賢治の歯ぎしりから生まれた数々の陽のあたらぬ東北型作品(語弊をおそれずにいうならば)の陰湿な諦念と、岸田國士のスタイリッシュな文法(筆遣い)は適度なbalanceを私にもたらしているのではないかと、自矜してしまう。私に力があれば、トーマス・マンのような大長編小説を書き残して遺書の代わりとしたいところだ、と、まあ、こういうのが表現的自己をかいまみている自己(私)自身、用語を変えていえば、デフラグしてみた私なのだが、こういうことを述べると、おや、ずいぶんと躁状態ですな、とまた精神科医の眉間の皺を増やしてしまいそうだワナ。
閑話休題(-それはさておき-・・・と読むそうな)
おまえは双極性障害(躁鬱病)を疾病ではナイと、いいたくてたまらない、現にいっている真っ最中のつもりなんだろうが、実際にその疾病の結果、自殺するひとがアトを絶たないし、おまえ自身も希死念慮に苦しむことか多いんじゃないのか、どおうなんだあ。という他者、読者(つまりこれもいわゆる表現的自己の写像なんだけど)の半畳が入りそうな気配は、これでも感じとっているのだ。
-いま「表現的自己の<写像>」という概念を用いてみた。何故、他者が表現的自己なのかを説明するには、そういうふうに図式的に述べるとわかりイイかと思ったからだ-。
で、自殺という行為を考察していくことにする。自殺を彼が考えるとき、彼はどのような心的情況に在るのか。くそ丁寧に繰り返し述べておくが、心的情況というとき、この心的というのは、精神的な、という内界の情況だけを表しているのではナイ。必ず<身体>という外界が、外界を含めて環界との二重の構造をとっていることを意味している。つまり、<身体>が環界と外界の二つの関係と了解の領域に在るということだ。関係というコトバをべつの概念に置き換えれば「空間性(的)」だし、了解を同じくそうすれば「時間性(的)」ということになる。演技者が他の相手役(複数の場合ももちろんある)といま舞台に立って在るとき、演技者は各々の役柄の相手役に対して関係を持っているし、相手役がどういうものかを了解している。つまり、ベクトルとしてそれを認識している。別にこれを「行列」として理解してもイイ。「空間性」という「行」と「時間性」という「列」とすればイイだけのことだ。では、その「行列」が相手役ならば、演技者主体はどうなるのかといえば、その「行列」は演技者主体の表象の写像だと考えればイイだけのことだ。そうすると、表現的自己というものが、他者にたいしては自己の写像だということも納得がいくはずだ。ベクトル変容、状態ベクトルという概念もここからきている。これは近界に対しての位相ということになるが、同じように環界に対しても、演技者はそういう位相をとる。
いま彼は鬱状態にあって自殺を考えている。(しようとしているのではなく、そうするかどうかを考えている)。この場合、ふつういうように彼を「そこまで追い込んだ」ものはいったい何なのだろうか。その具体性はさまざまあるにチガイナイ。私たちはその具体性を演繹とみたてて、根本的な本質的な原因に迫っていく方法をとってみることにする。ここでいいたいのは鬱状態、鬱病だから自殺しようとしている、といった「自殺したくなる疾病だから自殺したくなっている」的、精神科医師の脳裏は借用しないということだ。

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