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2013年4月12日 (金)

黄昏への帰還⑨-悟りは常に啓かれている-

自分は「クヨクヨ」しているから「後くされ」ていることが気になるのか、「後くされ」ているので「クヨクヨ」しているのか、たいていの場合後者が結論めいてしまうが、演技者は舞台の進行に乗っかりながらも、自身の出番でナイとき、あるいは登場していても特に芝居の進行そのものに影響のナイ、やや break time というときに「この先は気をつけないといけないな」と考えたりするが、それは少し二流、もしくは駆け出しの新人の考える「反省」であって、実力のあるもの、場馴れしているもの、才能あるもの、要するに出来る演技者はそうは考えない。では、どう考えるかといえば、たいていは「あれはなかったことにして、と、さて」といわば初期設定を壊してしまう。それは虚構だから出来る、可能なことではないのかといわれそうだが、何度もいうようにこの世界(難しくいえば表現世界面(空間)」には「虚構それ自体」というものは存在しない。このベクトルでいえば、「後くされ」というものは、彼自身がつくり出した幻想、表現でしかナイ。そりゃあ、egoismじゃないの、ともいわれそうだが、「いま-ここに- いる-わたし」「わたしは-いま-ここに-いる」が、関係の偶然性におけるさまざまな確率のひとつであって、囚われている過去の「後くされ」が表現(幻想)だとするならば、自分(わたし)もまた表現的自己という対象でしかないのだ。演技者が常に役と相手役を表現的自己として扱うように、自身←→自身は常に次を表現することが出来る。そうして、次を表現するために初期設定を壊すことが出来る。どのみち引っ掛かってくることならば、拘泥から単なる記憶へと変容させることが出来る。これをまた少々難しいいいかたでいうならば、因果律を破るということになる。およそ、釈迦-仏陀の哲学、思想はここに収れんしている。宗教的以前の釈迦の思想というのは「因果を断ち切る」にはどんな方法があるか、何故ならば「因果を断ち切る」ことこそ、生きること、生まれ出たことの苦しみから逃れる方法だと悟ったからだ。ところで、この因果律を簡単に破り、初期設定を単純に壊してしまう状態に自身の心的情況を変容させることが容易になったとする。それが、自身で確率的にせよ可能になったとする。このとき、どういうワケか、「ちょっと躁状態じゃないですかね」と精神科医は困惑したように患者となった彼にいうのだ。しかし、変わった(変えた)のはけしてその患者(彼)の躁鬱の状態ではナイ。患者(彼)が自らの躁鬱を操ったなどということは、おそらく患者(彼)からしてみれば毛頭、おぼえのナイことだ。躁鬱の状態の変化として、つまり「病態」の変化として患者(彼)をとらえたのは、精神科医の精神医療(医学)の尺度(物差し)だ。演技者は自身の「ある失態」を初期設定として、これを壊してしまった。「あれはナシ」とした。何故ならチガウ初期設定から始めるためにだ。で、ここで、もう一度問うてみる。日常においてこの<非日常>の場でおこなったような破壊、「あれはナシ」が出来る、可能、なのかと。釈迦-仏陀の哲学でいえば結果における執着(しゅうじゃく)を無くすということが、まるで悟りを啓くかのようなことが出来るのかと。で、もう一度答えてみる。可能だし、極端にいえば可能でナイほうがオカシイ、と。何故なら、私たちが現時点だと信じている「結果」は、確率のひとつから私たちが任意に選んでいるのに過ぎないからだ。すると「他を選べばイイ」「他を選んで」みれば初期設定自体は無効になる。「後くされ」で「クヨクヨ」していることを、「後くされというもの、クヨクヨするということ、を学んだ」。これは表現の変容だ(表現に過ぎないじゃないか、現実はそんなふうにはいかないよ、というヤカラには、再度述べておく。この世界には「現実それ自体」というものは存在しない)。この表現的自己のベクトル変容を双極性障害という病態にされるのは、たまったもんじゃねえな、というのが、患者(私)の偽らざる感想だと、いまのところそれだけはいっておくことにする。

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