黄昏への帰還③-花瓶は踊る-
舞台空間というものがどういうものかということについては、前述した。いまここでは単純にある小劇場に設えられたステージを想定する。本番ではナイので観客はいない。舞台美術もまだ中途半端なままだ。夜には仕込みが完了して、明日はリハーサルとゲネプロにあてられるだろう。(ゲネプロというのは本来は一部マスコミ関係者、写真撮影者、本番に来られない関係者を入場させての本番どおり衣装をつけての通しをいう。単なる通し稽古はランスルー、リハーサルは場当たりを中心に最初から最後までの稽古、だが、劇団、公演形態によって使い方はさまざまだ)。
このとき、演技者は何なのだろう。立て掛けられた人形ではナイ。演技者は<身体>としてその舞台(世界)に立っている。この世界(舞台)を演技者の環境世界(略して環界)と称する。いま演技者は<身体>として環界に身を置いている。演技者は自身の<身体>としても世界を持っている。ココロというものだ。つまり世界が二つあるということは、矛盾と相剋を演技者に強いる。そこで、演技者には心的現象が生じる。心的現象とは、演技者と環界における関係と了解から発生してくる演技者の <身体> の「表現」といえる。難しくいうと個体の幻想性だが、私たちはこれを「表現」として扱う。すると、「表現=疎外」という等式から、演技者はそこに在るだけで疎外を受けているということになる。これを「原生的疎外」と、吉本さんの『心的現象論』に倣って称することにする。
舞台には、小道具(置き道具)に用いられるガラス製の花瓶がある。演技者はその花瓶を視る。最初は花瓶は演技者の観る単なる対象でしかナイ。次にこれを凝視していく。やがて視るは観る(観察)となり、その大きさや凸凹や曲線や色合いなどとなって演技者のほうにもどって来る。これは演技者の知覚作用だが、それをさらに深いものにしていくと、演技者自らがimageでつくりあげた演技者のココロの「表現」という構造の変化を起こす。この「表現」も「同じく「表現=疎外」だから、これも吉本さんの『心的現象論』に倣って原生的疎外に対する「純粋疎外」と称することにする。花瓶は演技者の中で、単なる花瓶という対象から位相を変えている。演技者のimageでは、その花瓶は演目におけるどの場でどう使われるのかが、浮かんでくる。演技者はそこから自身の演技をさまざまに連想することが出来る。ここに原生的疎外と純粋疎外は錯綜し統合する。これは量子力学でいうならば、状態ベクトル(波の重なり、ベクトルの変容)として、演技者と花瓶が在ることを意味する。演技者はそのようにして、花瓶と関係し、花瓶を了解している。つまり演技者の心的現象とは、そのことをいう。
これは双極性障害を持つものも、そうでナイものも同じことだ。ここで、花瓶がまるで踊り出しそうだとか、割れて砕けてしまうとか、何か花が活けられているとか、どのようなimageを持っても、そのものが異常だとか、病的だとかと、いうことは出来ない。演技者に限っていえば、ここで異常というのには、そこが舞台で自身が演技者だという対応が喪失しないまま、どうしても花瓶が踊り出す気がしてならないといった妄想念慮にとらわれた場合だし、病的というのは、すでにそこが舞台であり、自身が演技者であるということを喪失してしまって、ただ花瓶が踊り出すことだけを懸念している様相をいうことになる。しかし、imageは想像力(imagination)だ。演技者が自身の演技のために、その花瓶をどう扱うかを想像していることは、異常でも病的でもナイ。そうして、ここからはタイセツなところと思われるが、その演技によって自身が楽しくなるか悲しくなるか、明るくなるか陰鬱になるか、は、その度合いがどうであれ、演技者の演技力と演技者としての資質の問題であって、双極性障害の範疇としては取り扱えない。ここで想像力の貧困な精神科医が、想像力のたくましい患者を診たとき、必ず、自身を基点とした羅針盤で線引きをし、データとガイドラインという数値と指針とから判断して、投薬の準備をするならば、患者という船舶はあらぬ方向に進まないとも限らない。そこで、疾病が誕生してしまう。患者の「これは何のクスリで、私は何か病気で、どんな症状なのでしょうか」について、精神科医が、そこが舞台空間という環界をもって患者の固有の <身体> との位相構造が存在していることを、考慮することを忘却しているならば彼はこういうだろう。「花瓶が踊り出すと楽しいなんて、あなた、ちょっと躁状態ですよ」
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