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2013年4月14日 (日)

黄昏への帰還⑪-ただ独りだけの目覚め-

いつだったか、なんの質問をしたのか記憶にナイが、私のその問いにこう答えられたことがあった。「・・・なのは、オレは自分自身に興味がなくなったからなんだ」
そのときはよくワカラナカッタが、ちょうどいま私は感覚として、感触として、それがよくワカルようになった。私は「私」に対して殆ど興味がナイ。ただ、私が創るもの、好きなものに対してだけ興味がある。興味があるというのは、何らかの生きる目的、理由の対象としてそれを選択しているということを意味するということも出来る。とうことは、それらが生きるという目的、理由の対象でナクなれば、私は死を選択するかも知れない。ただし、これは直截的に自殺することを意味しない。妙ないい方かも知れないが、私ふうにいえば、テキトーに死ねばそれで済むことだからだ。テキトー(適当)に死ぬということがどういう死に方なのか、そんなもんは、テキトーなんだから、こうだと断定していえるものではナイ。しかし、このイイカゲンともいえる死に方、死への対応、対処が、逆に双極性障害とやらから私自身を、その死に対する誘惑(希死念慮)から遠ざけ、反抗するというカタチで私を生きさせている(守っている)ことはまず、マチガイはナイと思われる。
だいたいにおいて「死ぬ」ということに私たちは敏感であり鈍感であり、また無関心であったり、必要以上にこだわり過ぎているきらいがある。女性が性的なecstasyにのぼり詰めるとき「死ぬ、死ぬ」てなことは汎用されているコトバじゃないか(「いく」というのもあるが、ありゃあ、行くんじゃなくて、逝くだろう。だって、どこへ行くのかワカンネエんだから)。男性は死ぬとはあまりいわない(ほんとに死ぬことはあるみたいだけど)。
ひとは死ぬのだ。どうしたって必ず死ぬ。「不条理」というコトバを腑分けしてみても、単純にいえば「ひとは生きていたいのに必ず死ぬ」ということになる。必ず死ぬのに、つまりそれは絶対的であるのに、死ぬことについて「不安」になったり「恐怖」したりするのは、何故だろう。おそらくそれは二重の本質的な矛盾からきている。
ひとは(自己は)自分のことがワカラナイ(まったくではないが三割くらいしかワカラナイ )これはゲーデルの不完全性定理からも数学的に導き出されたことだ。またひと(自己)は自己の<身体>を自己了解するのに、自己の「身体=器官」をもってしている。これは固有の身体を固有として識知出来ないということを意味している。もちろん、一般的な、人間としてのそれは、臨床的に数値で判断がつけられるところだが、たとえば風邪をひいて具合が悪いのは、自身(私)がそう苦しむのと、他人の場合では、同じようだがあきらかにチガウというところがある。平熱の高いひとはある程度の熱には平気かも知れないし、微熱に弱いひとはちょっとした熱でしんどくなるだろう。鼻水の量だってチガウだろう。さらにいえば風邪は世界観すらも変えてしまうことがある。要するに「ワカラナイ」のだ。ここに私ではワカラナイ私というものが在るのだ。これは矛盾だし、自己疎外だ。逆に問い直せば、何故、それをワカッタような気になって、私たちは生きているのだろうか。
トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の冬』にムーミンだったかが、すべてのものが冬眠しているのに、自分独りだけが目覚めてしまったら、どうなるんだろう。と、不安やら恐怖やらにふとおそわれるプロットがあるが、あの入眠と等価の覚醒は、読むものが読めば、これは鬱症状のときの雰囲気そのままだなと、思うにチガイナイ。なにか、類的なもの(たとえば「死」)から離脱するかのような固有の状態、自殺における「死」は類的なものではなく、固有の死、つまり「死の固有性」の発動ともいえる。ここに類的な死の不安や恐怖とはまったく正反対の「私の消去」というベクトルが現れる。

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