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2013年4月10日 (水)

黄昏への帰還⑥-ココロはつぶやきになるだろう-

演技者(役者)に対してお茶の間の(そのような間があるかどうかは別にして)庶民がいうことのひとつ、あるいは感心することのひとつに「よくあんな多くのせりふが覚えられるねえ」がある。演技者のせりふというのは、演劇舞台とどんな関係を持っているのだろうか。まず、演技者はせりふを「記憶」している。これはマチガイないことなのだ。何故ならせりふというのは「決められたコトバ」なのだから。ところが、2時間程度の舞台を務めるときに、自らの登場シーンで自らの役のせりふをいうときに、もうひとつ記憶していなければならないものがある。いわずと知れた相手役のせりふだ。相手役がどんなせりふを語るのかを記憶していないと、いつどこで合いの手を入れたり、あるいは頷くやら首をひねるやら、ため息をつくやらの演技を入れることは決められない。観客席の観客には、そのようなことは自然に、とっさに、即興、アドリブのように挿入されていると思って舞台を観がちだが、(そうしてそういう役者も中にはいるのだが・・・困った役者ということを私はいっているんだぜ)もちろん、それらも決められている。(およそ即興的にすればいいところは、即興でと決められている)。ときどき、相手役のせりふが何処で終わったのか記憶がおぼろげになったり、即興的やっつけの演技などしていると、相手役のせりふが終わっていないのに自身のせりふを語りだして、アトからこんがらがってくることがある。舞台が不成功に終わるというほどではナイにせよ、相手役の演技者とは、あまりイイ関係にはならない。ほんとうは、優れた演技者は相手役のせりふを聞いたときに、自身のせりふを記憶から引き戻す。自身のせりふ(演技)を自身の役(表現的自己)へのベクトルだとすれば、相手役というのはもうひとつの対他的な表現的自己(コヒーレンス)だから、状態ベクトルはこの統合によるコヒーレントということになる。このような場においては、演技者は自身のせりふや演技というものを、相手役との時間的な連なり(アナログ)として記憶しているというよりは、空間的(デジタル)なものとして記憶している。もう少しいうと、ほんらい、せりふのやりという時間的(アナログ)な度合いであったはずのものは、空間的(デジタル)な度合いとして変容させられている。ここでは、相手役のせりふは外からのものでありながら、空間化されている分だけは演技者自身の「内発語」となっている。
この「内発」されるコトバ、これを「幻聴」として聞くことになると、統合失調症の症例になる。私たちは、「頭の上で鐘が鳴ったり」空耳のように無意識のうちに何かある歌のフレーズを「頭の中で聞く」ことがある。これを「内発語」というふうに名づければ、いわゆる「ココロの中のつぶやき」などはすべてこの内発語になる。これが病的になるのは、この内発のコトバをあたかも外からのコトバとしてしか了解出来なくなる、あるいはそういう関係に追い込まれたときだ。
演技者が、舞台にあるときそその<身体>は、環界にまで拡張される。つまり、舞台すべてが、演技者の<身体>として識知される。だから、そこからの声、コトバは、演技者には、表現的自己の拡張として関係づけられる。これは少しも病的なことではナイ。異常なことでもナイ。だが、日常において、この領域を広く持っているひとは、常軌を逸していたり、尋常ではナイひととして、扱われることが多い。少なくとも、精神科医よりもその領域が広い患者はえてして精神科医からは、医療対象となるきらいがある。これもまた、疾病の生成というしかナイ。

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