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2013年4月20日 (土)

黄昏への帰還⑰-ほんならみんなキチガイや-

表現はそれ自体「疎外」を伴っている。というより「表現する」ということは「疎外を生む」に等しい。「生きるということとは、原生的疎外と純粋疎外とともにある表現だ」といってイイ。この場合「生きる」をヘーゲルの観念論弁証法から底上げされた唯物論弁証法という運動の形態にニュートンの「運動の3法則(慣性の法則/運動方程式:F=ma/作用・反作用の法則)」を対応させても、科学哲学派すらからもNGが出るとは思えない。私たちは、「ただ生きて」いるのだと思い込んでいようといまいと、内界や外界や近界、環界への表現を表出して、そのぶん、疎外を受けている。「生きる」という等速直線運動に加速が加わると、重力が生じる。この重力は、べつに加速度重力でなくても、等価原理から、自己自身が受ける重力ならば、なんでもかまわない。この重力に相当するものが、躁や鬱であり、それは「生きる=表現」という作用に対する反作用だ(と思うほうがワカリやすい。実際には慣性力には反作用というものはナイ)。加速度は導関数から求められるものだから、微積分という図式的、幾何的な「像(グラフ)」としてイメージすることが出来る。唯物論弁証法の立場からいうワケではナイが、私たちは自然の一部として<身体>を有しているので、<身体>そのものも、内界、外界、近界、環界からの重力を受ける。つまり<精神力>のみならず<身体力>もまた、重力の場にさらされる。この精神力と身体力という自然であるものが、表現するという作用によって非自然的にふるまうために、反作用として受ける重力を心的現象としての躁鬱とかんがえる。たいていいままで述べてきたことは以上のようなものだ。だから、双極性障害は疾病ではなく、避け得ない、ひとの存在がもつ「不可避の本質」とかんがえられる。「ほんならみんなキチガイやいうてんのか」という半畳に対しては、そのとおりだとしかいいようはナイ。ただ、チガイがあるのは、その重力の源の「加速度」だけだ。加速度による重力に耐えられる限界というものがひとにはある。この限界を超えると、ひとはペシャンコになる。微分係数の比率の著しい差によってみいだされる急激な平面上のグラフの変化はその重力の大きさそのものだ。幾何的にみれば、あたかも突っ立った縦線のような部分がグラフにみいだされれば、そこでひとは躁鬱、何れかの状態、情況にあるといってイイ。「みんなキチガイ」なのだが、ふつう、グラフの勾配が縦線になるような極端な変化をみてとることはナイ。だが、この微分から微分方程式を予測してみると、そのひとのグラフの全体像が極端な加速度の連続だということがワカルこともある。さすれば、そのひとはその現在、躁鬱の何れかの領域にあるといってイイ。この領域は、相空間の雲状において濃い密度をもっている部分(積分すれば、その部分がどういう部分なのかグラフでもみてとれるはずだ)で、ゆらぎが激しい部分に対応、相当する。では、何故、ひとにはそういう急激な加速度が現れたりするのだろうか。残された問題はそこだけになる。

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