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2013年4月 1日 (月)

エビリファイへの考察⑭

私たちはここで、案外ぞんざいに「関係」「了解」というコトバを使ってきたが、これは整理しておくにこしたことはない。また「時間性」や「空間性」もそれと同じように、ついでに扱うと-理解が納得-してくれると思える。
たとえば私たち演劇もんは「舞台空間」というコトバを仕事の場合、日常的によく用いるのだが(「舞台空間において」とか「舞台空間としては」とか「舞台空間では」とか)、では「舞台空間とは何ですか」という素朴な疑問に答えられるものは意外に少ない。たいていのものは、それは劇場の舞台の上の現場、程度にしか理解していない。一般の人々もそうにチガイナイ。では、それだと「舞台」というだけでは何故イケナイのか。「舞台」というのが、「今日の舞台は」というふうに、その日の演目をいう場合が多いせいかも知れないが、つまり演じられたものと同義で使われることが多いからなのかも知れないが、たとえそうだとしても、というか、そうであれば、「舞台」と「舞台空間」は別に取り上げて考えなければならない。
端的にいってしまえば、「舞台空間」というのは劇場と称される機能の一部である場所、舞台としての場所のことをいうのではナイ。これはまったくの逆で、むしろ「何かが演じられる(た)-表現される(た)-空間(場所)ならば、そこを[舞台]と称する」という定義のほうが正しい。いまマンションの一部屋で、あるいは公園で、あるいは街頭、駅前で、お芝居やら舞踏やらのパフォーマンスが演じられたとしたら、そこは「舞台空間」なのだ。
唯物論においては「時間」は「物質」に附属している。「物質」という空間物がなければ時間というものはナイということになっている。「ときの流れ」という先験的にカテゴライズされたものにしても同じで、これはニュートン力学にアインシュタインの特殊相対性理論が登場するまでは、絶対時間として物理的に固持されてきた。しかし、物質が固有の(それぞれの)時間を有するものとして識知されるようになると、いわば、あんたの時間と私の時間はチガウといういい方が、物理的にもいえるようになった。その伝でいうと、「舞台空間」における「時間性」というものは「非日常的」なものではないかといえそうだ。「非日常的」というのは、日常において関係していることや了解していることがチガウ形態で表されるということに他ならない。私たちは「舞台空間」おいては、日常とはチガウ「関係」を持ち、それを「了解」するのだが、この場合の「関係」は「時間性」と密接につながり、「了解」は「空間性」と密接につながる。日常でも同じことがいえるのだが、「自己関係づける」ものはその時間性だし、「自己了解づける」ものはその空間性なのだ。
具体的に演技者の心的な動向を追っていけば、まず演技者が(稽古だろうが、本番だろうがどちらでもイイ)舞台に足を踏み入れた場合、舞台空間の空間性と時間性を身体で引き受けることになる。この場合、演技者は内界と外界(身体)という(自己←→自己)に対して環境世界としての「舞台空間」を関係づけ了解する。[(身体)という(自己←→自己)]←→[舞台空間]。このとき、演技者の身体(性)は外界(身体)から舞台空間という環境世界すべてに拡張される(というか、ほんとうは、そうあらねばならないのだが、そう出来ない下手なのもなかには多く在るからなあ)。よって、その舞台空間の空間性と時間性は、演技者の脳(image)によって、カスタマイズされる。その方法は演劇においてはある特殊性を持っている。それは、本番に向けての未来へのimageと、これまで稽古してきた過去からの呼び起こしによるまったく逆方向のimageの結びつけだ。
ところで、この空間性(了解)と時間性(関係づけ)が演劇ではなく(非日常ではなく)、日常において生じてしまうとどうなるのか。私たちはそこにこそ「異常」と「病的」なものをみるにチガイナイ。演劇のような非日常の舞台空間においては鍛練と訓練において、それらを掌中に置くことは出来る。しかし、日常はそうはいかない。疎外(思い通りにならない)は、「異常」や「病的」な[表現]として発現してくる。

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