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2013年4月 6日 (土)

黄昏への帰還④-ひとはコトバを歌う-

演劇は<非日常>であって、けして<非現実>ではナイ。では日常に非するところは何かというと、起きることが舞台の上の出来事だからというのは瑣末なことに過ぎない。もっとも重要なところは、演劇の場合、語るコトバがせりふとしてあらかじめ決められていることだ。これは日常とはまったく逆、正反対の事象だ。日常の場合、私たちはあらかじめ決められたコトバを語っているのではナイ。独り言であれ、他者との会話であれ、予測は可能なものの「決められている」というのにはほど遠い。演劇によるせりふは「コトバをコトバする」ともいうことが出来る。この場合「コトバ」が意識下にあるとすれば、もちろん、決められている以上はそうなのだが、それを語るということは、コトバするということは、意識を意識するということに他ならない。しかし、意識を意識するということは日常でも在ることだ。だから<非現実>ではなく<非日常>なのだ。
ただ、演劇の場合、意識を意識するだけにとどまらず、意識を無意識化するという作業もおこなわれる。もちろんその作業は意識的におこなわれるのだが、演技というものはそういう技術でもある。演技者は花瓶を視ている。それが観ているになり、演技者の意識下に置かれると、花瓶は花瓶という単なる物質的対象から変容を遂げる。もし花瓶が恋人になってしまったのなら、それは演技者の想像力における演技の力であって、演技者は花瓶を抱いてダンスを踊ることも可能だ。そのとき演技者は原生的疎外から純粋疎外へと離陸している。しかし、いくらなんでも花瓶の触覚を人肌に感じることは不可能に近い。このとき演技者はそれ(花瓶)を恋人とみたててはいるものの、花瓶だということはいささかも疑っていない。するとここでは「花瓶を恋人のように扱っている」という表現が演技者によって演技されていることになる。これは映画において、CGが用いられ、花瓶が美しい女性に姿を変えるというシーンであっても同じだ。この領域においては、演技者はまったく正常に演技者として演技をしているに過ぎない。しかし、ここで「花瓶を恋人のように扱っている」という事象を述語的にとらえるとすると、何故、花瓶を恋人のように扱うようになったのかという、主語が必要になる。この主語と述語の関係は、日常でも起こりうることだ。対象に対するある特殊な了解さへあれば、ひとはそういう関係を花瓶にすら持つことが出来る。その花瓶は恋人からのギフトだったから、母親の形見だったから、骨董品として優れたものだったから、と、幾つでも主語を捜し出すことは可能だ。では何故、ひとはそのような純粋疎外=表現が可能なのか。それは単にガラス製品としての花瓶に対して状態ベクトルをつくり、ベクトル変容させることが出来る存在が「ひと」だからだ。これをハイデガーふうにいえば、ひとの存在は「現存在」だからだということになる。(現存在の定義はややこしいが、いわんとしているのは、-存在しながら、存在を了解することが出来、自らの存在によって存在そのものを問題に出来る存在-てなことになる)。この古典哲学に現代化学の解釈を足し算すれば、ひとはそれ自体コヒーレンス(自己生成)な存在であり、コヒーレントな状態ベクトルによるベクトル変容(波の重ね合わせによる干渉における生成)で、ガラス製の花瓶にさらなる「深み」を与えているということだ。およそ想像力とは、この「深み」や「奥行き」という空間化度と、時間化度の関わりをいう。たとえば、演技者がそこ(舞台)で歌ったとする。これは時間性としてとらえられがちだが、あきらかに空間性による、せりふのベクトル変容だ。何故なら、歌声というものは「波動」だからだ。波は空間を振動して伝わるものだ。とすると、聴覚は空間性を時間化してとらえることが出来るといわねばならない。この事象(情報)は現象(表現)としては、まかり間違うと「異常」や「病的」として捉えられかねない。何故なら、ひとはふつう日常会話においては「歌ったりしない」からだ。だが、日常会話でもひとは「コトバを歌う」のだ。

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