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2013年4月 6日 (土)

黄昏への帰還②-初々しき一所懸命の看護師さんの素っぴん-

私は精神医療(医学)に対しては何の学問もナイ。しかし、常識的な教養程度のものは普遍的には所有しているつもりだ。ここでいう常識的教養というのは精神医学(医療)においてではなく、一般生活者としてだ。もうひとつ、私はおよそ40年、演劇という未知の不可思議な表現営為を歩んできた。イイカゲンさ、乱調に錯綜は芸術に必要なものかも知れない。しかしそれはあくまで、創作営為、表現行為についての上の話で(くだいていえば舞台の上での話で)「演劇論」としては乱調やら破綻やら錯綜やら、果ては輸入学問の丸写しやらは、私にとって単に胡散臭いものでしかなかった。私は私たちにとっての、真っ当な「演劇論」を求めた。それは『恋愛的演劇論』として、未完成ながらも完成をみた。そこで扱ったさまざまな方便、方法論は、演繹←→帰納としてけっこう融通の利くものだということもワカッタ。私がこのブログで、今度やってみたいことは、精神医学以外の双極性障害の治療法を示すことではナイ。双極性障害の本質を私たちなりに明確にし、それと対峙していくにはどうするのが正しいのかを試行錯誤していこうというものだ。よって、その方法論として、私たちは「演劇論」を用いるというアクロバットな装備を整える。
私たちは、それなりにここにひとつの世界として「演劇」を考える。それは精神科医と患者という代わりに演出家と演技者となったり、観客と演技者となったり、演技者と舞台空間や舞台時間となったりする。その写像は、非現実的(虚構)のようにみうけられるかも知れないし、誤解を招く危険があるかも知れない。しかし、こう考えてはどうだろう。
「この世界は演劇だ」
この観点に立てば、さまざまな具体的(演繹)命題から、双極性障害という抽象的命題に帰納していけるはずだ。それにそのほうが、なんやかんやと精神医学用語を並び立て臨床医学の数値や統計を開陳されるよりもオモシロイではないか。オモシロクやろうよ。何故なら私たちはもう、あの医師たちの仏頂面はみたくないのだ。三流役者のような下手くそな笑顔の演技は映像取材の中だけにしてもらいたい。私たちはまだ初々しい看護師さんたちの一所懸命の素っぴんが観たいのだ。
「ちょっと気分がスッキリしないんです」「うーん、それは心因性のものではないですかねえ」「心因性のものとは」「気分がスッキリしないようなことです」かくなる自同律、循環論はイヤというほど耳にしてきた。「鬱病になると脳内物質のセロトニンの数値に変化が起こるんです」「セロトニンの数値に変化が起こるとどうなるんですか」「鬱病になることが多いんです」「鬱病だからセロトニンの数値がおかしいのか、セロトニンの数値がおかしいから鬱病なのかどっちなんです」「現在の精神医学ではまだワカッテません」鶏が先か玉子が先か。「このひともう、手に負えないので、ここに、お医者さまのところに連れてきました」「あなた方の手に負えないものを連れてこられてもねえ」不眠症は眠れば治る。私たちの焦燥はつのる。「イライラしますか」「イライラかなあ」「イライラするでしょう」「イライラもしますね」「イライラしてるんですね」誘導尋問か別役実さんの不条理劇だ。こういうことはもうたくさんなのだ辟易なのだ。
私たちはいま、舞台という世界に立ったひとりの演技者を想定する。ここから彼の「心的現象」を考察していきながら、黄昏に帰還する。

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