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2013年4月11日 (木)

黄昏への帰還⑦-後くされ、先に立たず-

私たちは、関わり了解する世界を、内界(身体内部の精神世界)外界(身体)環界(身体の置かれた環境)とカテゴライズしてきたが、このあたりで、演劇の身体拡張(舞台)とあわせみて、もう一つ、世界が存在するのではないかと思い当たっている。つまり、外界と環界のあいだにそれは位置するもので、演劇の身体拡張としての舞台と同じものが、日常にも存在するということだ。それはたとえば自室を想定すれば、狭義のものとしては考えやすい。これは脳科学での分野に入るのだが、「脳はその環境を自身の脳に合わせてつくりかえる」といったものだ。これはカスタマイズと称されるもので、パーソナルな周囲の環境整備のようなものだ。キチンと整理整頓されていないと気がすまないひともあれば、散らかってきるほうが気楽でイイというひともいる。私などは、自身の仕事がしやすいように程よく整頓され散らかっている仕事場に日がな一日いることになる。
「きみのところにいってイイ」と男がおねだりするときは、必ず「きみを抱きたい」というときなのだが、もっと卑近にいえば、男の下半身に変化が生じているときなのだが、女性はこれを「いま部屋が汚い」てなふうに拒絶する。では、整理整頓、きれいならば許すのかというとけしてそうではない。これは「抱かれたくナイ」ということを直截(ちょくせつと読む。接点の密着度が強いときはこちらを用いる)いっているのではナイ。また、ほんとうに部屋が汚いかどうかは問題ではなく、自分の部屋でそのような営為が成されるのを嫌っているのだ。何故なんだろう。知らん。そういう心理学的なものにはあまり私は興味をもったことがナイからだ。
「じゃあ、ボクんとこ来る」で、行く女性もいるだろうが、そういう関係は長続きしないと思っていたほうがイイ。これは男も女も両方にいえることだ。問題は要するに俗っぽくいえば「後くされ」なのだ。私もそうだが(私の場合は極端にそういう傾向があるらしいが)誰だって「後くされ」はイヤなのだ。ではこの「後くされ」というのは何なのだろうか。「いま-ここに-わたしは-いる」という存在感覚が、突然この「後くされ」のようにいびつに感じられることはどんなひとも経験する。そのとき、そのひとは、心的に現在-未来をかんがえているのだが、この現在が、あたかも、過去の存在として識知されてしまうのだ。つまり、自身は現在に在るのだが、心的な情況が彼を過去に引っ張るのだ。
演劇でいうと、演技者には時間の矢があって、ともかく芝居を進行させていかねばならないのだが、たったいまの演技の失敗(というほどでもなく、出来不出来)がつきまとって次のせりふやらactionにスムーズに移行出来ないことはしばしばあることだ。これは居心地の悪いものだ。居心地が悪いですむならばまだイイ。これをふだんとチガウ範疇でかんがえると自身の存在の外界は現在であるのに、環界や、その中間の近界(と、今後はそう称する)が過去(追憶)の中に在るので、「身の置き所」が奪われてしまう、という事象に捕捉されているということになる。この程度の事象はまだ異常とはいわない。異常になるのは、この状態そのものが、払拭出来ないところまできたときだ。これはたとえ、その居場所が何処であろうが(部屋を出ようが出まいが)まとわりついて来るようになる。たとえ、如何様な追憶の場所と無関係な場所に移行しようと、その場所のなんらかのものが、「後くされ」のなんらかと、むすびついて妄想される。たとえば、カラオケに逃げても、その歌の一節、画像の中の何か、マイクのカタチにいたるまで、結びつけようとすればなんだってひとは想像力でこれを結びつけてしまうだが、それが、ある強い意思のようなものでおこなわれる。身も蓋もなくいってしまえば、鬱病の起因は自身の「後くされ」の拡張にしか過ぎない。

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