黄昏への帰還⑤-頓狂だよ、おっ母さん-
いっとき「自己表現」というコトバが流行った時期があった。「演劇は自己表現です」などということがまことしやかに、あちこちでいわれたものだ。(いまだって、つまんねえワークショップでは、虚仮威しか呪文のように声高にいわれているかも知れない)よくよくかんがえればこの「自己表現」というコトバは重複したコトバなのだ。何故なら、そこに在るというだけで「自己」というのはすでに「表現」されたものだからだ。自身から他者をみているのと同様に、他者から自身がみられているときも、そういう意識をもって私たちは向き合っている。即自的対自的にしても「自己」は自己に対して表現している。この常態は、原生的疎外の状態をいっている。しかし、演劇の上で表現を強いてそういいたいのなら「表現的自己」という持ってまわったいいまわしをする他はナイ。この「表現的自己」というのは演劇においては「役」のことだ。演劇は「自己」を「表現」する場ではナイ。表現されるのは役だ。演技者たるは「役」を表現する自己だ。この、ある「役」を表現しているのが「自己」だということは、いいかたをかえれば原生的疎外と純粋疎外との錯合ということになる。
さて、ひとは日常でも歌う。極端に例示したほうがワカリイイと思うから、そうするが、古(いにしえ)の人々はよく歌を詠んだ。「読んだ」のではなく「詠む」というのは詩歌短歌を創ることをいう。そうして吟詠というコトバがあるように、それには節回しさへつけられる。歌を吟じる。日常に会話、談話、対話するのに歌を用いたのだ。万葉集、古今和歌集、百人一首、これらは<非日常>の営為ではナイ。日常の「表現」なのだ。
ところで、いま、歌のごとくにしか相手とコミュニケーションがとれないひとがあるとしよう。大きなひとを観て、「あなたって山ね」「あなたは雪男」「あなたは家の庭」という。抱っこして欲しいのを、「大きな山さん、登りたい」と、いう。これはアスペルガー症候群などと隔壁される。うまく相手とcommunicationがとれないひとのことをそういう障害で呼ぶらしい。アスペルガーというのは、こういうことをいいだした精神科医(精神病理学者)らしいが、私はこのひとこそその手のひとではないかと揶揄したことがある。ともあれ、精神病理学者というのは、精神病理とやらを重箱の隅をつつくように探す名人のことをいう。と、これも揶揄だけど。
ある女性歌手が結婚した。結婚相手とは出逢ってすぐの一目惚れというもので、その歌手がいうのには「そのひとと出逢ったとき、頭の上でほんとうに鐘が鳴ったの」。笑い話にしかならない。ある女優が「私、お風呂でよく妖精を観るんです」と発言した。天然ボケ(もの)と称される部類に属することになった。しかし、私は前者の場合はほんとうに鐘の音が聞こえたのだと信じて疑わない。後者もまた観たにチガイナイ。これは彼女たちの歌だと思う。どちらもそのまま歌詞になるじゃないか。抑揚の拡張はメロディとリズムになるではないか。私は、こういう話を耳にするとき、その人間を信じないどころか、普段の厭世や人間不信もどこへやら、人間、ひとというものを信じたくなる。
では、このような「歌」は、ひとの心的現象の奈辺から生じるのだろうか。<身体>と環界においての関係と了解において、その時間性と空間性において、あたかも幻聴や幻視のような異変はどこからやって来るのだろうか。頓狂なことをいうようだか、この頓狂な彼女たちの発言はそのまま頓狂で、頓狂の頓は頓智の頓だと考えてはいけないだろうか。そうしてもっと頓狂に答えれば、彼女たちの「歌」は「悲しみ-哀しみ」を超えてくるもののような気がしてならない。何故なら、もともと「歌」というものは悲哀を超えるために存在する純粋疎外=表現だからだ。視覚、聴覚、知覚、感覚、触覚、味覚、嗅覚などのさまざまな<身体>の精神現象としての心的現象が環界によってベクトル変容されていくとき、最後に残るものこそは「悲哀」であり、「悲哀」こそは、躁鬱の根底に横たわる黄昏といへはしないか。