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2013年4月 2日 (火)

エビリファイへの考察⑮

ところで、精神科医と患者との両者をもう一つの位相から観ることも可能だ。例のごとく表現の形態を演劇に置換すると「一人芝居」の演出者と演技者だというふうにすることも出来る。
あるいはこの対峙の仕方のほうが、精神科医と患者とのお見合いにおいては、相応かも知れない。ただし、のっけにことわっておかねばならないのは、演出者というのは即自的に表現者にはなれない。演技者という表現者をとおしてしか、表現というものが出来ない。よって、精神科医も同等の位置においた位相になる。これはどういうことかというと、精神科医は向かい合う患者との交換価値形態において、相対的価値形態か等価形態か、何れかの一方に在ることしか出来ないということだ。つまり、精神科医はどうじに患者にはなれないということを意味している。
演技者が舞台に立つ。このとき、それ自体で演技者は原生的疎外の中に在る。演技者が舞台で演技表現を開始する。このとき、演技者は環境世界からの疎外(純粋疎外)の中にある。これは先述したことだ。この場合、「立つ」ということ自体が表現であるならば(まさにそうなのだろうけど)、演技者は舞台に在る瞬間、単なる生命体(生物)としての身体性への疎外を感受しているといいなおしてもイイ。いくら異化効果とやらを繰り出しても、イカにもタコにもなれない。演技者はひとのカタチをした身体という自然なのだ。そうしてその自然は環境自然からの異和としか存在できないという本質をもっている。
そのとき、演出者(精神科医)のいる「場」をどう設定しておけばいいのだろうか。これを観客席、あるいは観客視線とするならば、その「場」はある「境界」にあるといってイイ。 これをコトバを換えていえば、精神科医の治療は、常に患者との境界からのものだということが出来る。これは強調出来るものだ。精神科医がたとえ玉座に座っていようとも患者は奴隷ではなく、それが判事席にあろうとも患者は被疑者でも罪人でもナイということだ。むろん、精神科医(演出者)は患者(演技者)に向けて、何か判断をくださねばならない。ここにおけるチガイは、精神科医はその基準や根拠に心因性、内因性、外因性をいい、演出者はそれをいわないことだ。考えてもみるがイイ、演出者が演技者の演技に対して、「きみのその表情は心因性からきているのではなく、外因性のものだね」などという阿呆がいるワケが(ナイとはいえないのがこの業界だけど)。
問題はこの「境界」にあると思われる。「境界」から観ると、異常や病的な部分(すなわっち、演技がうまくいっていない部分)は、あるだけある。しかし、この「境界」を演出者は極限まで演技者に近づけることが出来るように(演技者に到達することは本質的に不可能だが)、精神科医は極限まで患者に接近出来る(する)だろうか。私には、現行精神医療では、そんなことはあり得ないとしか思えない。もし、精神科医が演出者のように患者の極限に最接近したら、精神科医の正常値は狂ってしまう。正常でなくなった精神科医が正常な診断をくだせるワケがナイ。これは矛盾だ。そこで、考えられるのは、精神科医にとっての医療法、治療は、一旦極限に最接近するが、そこから境界へともどって、自らの接近値を客観(的)と精神科医自らが判じる方法でデータ化し、一般的なガイドラインに照らし合わせて治療手段(投薬の匙加減)を決める、と、これだけのことになる。あるいは、この繰り返し(反復)においての方針転換が含まれるとえば、そうなるだろう。

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