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2013年4月

2013年4月23日 (火)

黄昏への帰還⑱-安定と平衡-

ブリゴジンの「散逸構造」というのを端的に表すと、囲碁を思い浮かべれば足りると思っている。囲碁は将棋とチガッテdigitalな対戦ゲームだ。将棋が常に三手先を読んでは修正していくのに比べて、囲碁も手を(手筋を)読むのだが、将棋と根本的にチガウのは、常に全局面と部分的局面を「観る」力が必要とされるところだ。全局面、つまり盤上全体を観ると、ただ黒白の石が置かれているに過ぎない。ところが、盤上では、ゆるやかに黒白の石がパランスを保っている(互角の)状態と、いましも角逐の戦闘が繰り広げられている、石の活殺の局面とがある。つまり平衡状態なる部分と、激しいゆらぎの部分があるということだ。「散逸構造」とは、宇宙もこのように在るとする考え方だ。ニュートン力学にひきもどすと、等速直線運動はある平衡系だが、加速度運動に入ったとたん、この平衡は破られる。これが囲碁の戦闘局面だ。もう一歩これを表現の在り方にもどすと、なんとはなくの生存に対して、極端な表現の局面が訪れたとき、平衡系がやぶられたとき、加速度運動に入ったとき、それが、他の質量からの要因としてのものであっても、重力が発生する。質量としてのものというのをコヒーレントなものと考えれば、加速度運動はコヒーレンスだ。等価原理において、この区別は出来ない。この重力を作用に対する反作用という概念に置き換えれば、作用である限りは、なんらかの運動(動き)が要因として存在しなければならない。それが外力なのか内力なのかも等価原理として考えられる。それが耐久力を超えたときに、躁鬱という状態が発生する。
私たちはその源の運動(動き)が何かを探してもイイが、囲碁の活殺戦闘の局面のように勝負のためだという単純な観方は出来そうにナイ。何故なら、私たちはそのような情況、状態を第三者的、客観的に眺望するのではなく、自身の在り方として体験してしまうからだ。盤上を眺めることはある程度において可能だとしても、私たちはそのとき盤上の非平衡局面として存在しているということだ。しょせんは自身のことなので、他者にはワカッテもらえないし、また、ゲーデルの不完全性定理のように自身のことは自身ではワカラナイ、という矛盾の中に在る。他者にも自身にもワカラナイ。あるいは <他者にも自身にもワカラナイ>だけがワカルというところに自身はある。こういう状態が、何の理由もナシに、一気になんらかの引き金(これも当人にはハッキリしない)でカタストロフ的にやって来る。ルネ・トムのカタストロフ理論は、演劇論や戯曲の塾のレクチャーでも取り入れている(ある程度は気休めなんだけどネ)。ここでは詳細は述べない。
精神科治療の方法論に話をもどすと、彼らのいう「安定した状態」というのが、一定の波動を継続させる状態をいうのか、ある平衡状態をつくり出す状態をいうのかにおいては、感触としては後者に近い。前者にしても、ではその「安定」している波動が、患者にとってイイのか良くないのかを判断する根拠(エビデンス)は何もナイ。そもそも「安定などしなくてイイ」し、「安定などしない」だろう、というところから、このブログは始まっている。要するにそういう自己に対してどこまでどんなふうに対峙していけるかということだけなのだ。
双極性障害(と、名前がつけられた躁鬱障害)は苦しい。辛い。しかし、自我の崩壊には至らない。これまた本質的に自我の崩壊は、双極性障害の場合には成立しない。自我が崩壊していれば、この疾病は起こらない。あくまで自我(自己)の識知の変容がこの疾病(だといわれる障害)の全貌だからだ。

2013年4月21日 (日)

六十歳のエッチ度

ちょっとワケあって原口統三『二十歳のエチュード』を少しばかり読みかえしてみて、そうだなぁ、オレは遺書は書くかも知れないが、遺作というのはナイなあと頭を掻いた。というのも、avecビーズに書き下ろしている次々回のレパートリーのタイトルが『トワイライト アット タイム twilight at time~この黄昏よ~』てなふうで(最初は『セピア』というタイトルを予定していたが、ヘンコー)、読みよう観ようによっては遺作みたいに思われるかも知れないなあと、苦笑まじえて、で、頭を掻いたと、そーいうことだ。
遺作が書けないというのではなく、年齢からいえば近年は書いたものみなこれ遺作のようなもので、みかけは六十歳の還暦にはみえない程度にまだ若いらしいが、心身あちこちガタがきていて、介護を要するほどの大きな病気はナイけれど、ほおーっ、これが六十歳のカラダかと、といって持て余しているワケではなくそれで妙に満足はしているのだ(ともかくもimpotenceは治ったしね)。ココロのほうもこれくらい狂っていて、まあいいじゃないか天才なんだから、とこっちはちょっと居直っている(まあ、空威張りネ)。
私が房事をともにしたのはいまの嫁さんを含めて七人だが、房事はナシのおおきな失恋が四度ある。いまなお行方知れずの一人を数えてこの四人との失恋は追憶の現在形だ。いってみれば能の四番目物・雑能・現在物という手合いになる(三島由紀夫の『近代能楽集』はみな四番目物になる。あたしゃ、あんまり好みでなく評価もしてナイけどネ)。わりかしオレも恋多いのネ、と、こんなことは六十歳になってこそ恥も外聞も気にせず語れることにチガイナイ。その点では、この六十歳というワケのワカラン、未体験の領域も心地悪いものではナイ。こういうことだけが、六十歳の特権かネ。
初夏、再々の引越しで、滋賀の実家にもどることにした。仕事の都合上、嫁さんはずっと大阪の別居婚という形態はつづくが、母親も高齢の独居老人だし、大悪党の父親だけが母親に甘えるだけ甘えておいて眠るように大往生したのには、内心「この野郎っ」という気がしてならず、こっちが先に逝く確率のほうが高いのだけれど、まあ、母親に近いところで付き添って、「ちょっと嫁んところにいってくらぁ」「今日は嫁、来るよ」でいいんじゃないかと、敷金礼金家賃ナシの実家に居候だ。
私の力量において、やれる限りのことはなんとかやれたと、矜持にこそならないけれど自負はしているし、オレ、精一杯やったんですよ、これでも、といえるから、結果の轍などどうでもイイのだ。いまの嫁さんと仲良くしていければ、それで充分。閨房においては嫁さんを討ち死にさせられれば、六十歳のエッチ度としては上出来でしょ。幸い嫁さんとは30年の年齢差があるから、彼女の成長が楽しみだワ。残す私財に銭はナイけど、蓄えた知的資本は、出来るだけ遺すつもりだ。てなこといってるけど、いやあ未熟未熟、ほんとロクデナシ。よくもまあ、これだけ無知蒙昧で、六十歳でございますなんて顔してられるヨ。でも、生涯現役、筆一本の渡世。それしか能がないからナア。「大衆のために書く、書きますよ」ああ、我が大衆よ。オレとあんたのことだヨ。
では、コルクボードのお仏壇、幾枚かの写真に線香あげて、と。『方丈記』なんかダメよ。世の中も自身も、川の流れの如しじゃなくて、センコの煙よ。

2013年4月20日 (土)

黄昏への帰還-番外-

名だたる探偵シャーロック・ホームズがコカイン中毒者だったことは、シャーロキアンなら誰でも知っている。シャーロキアンでナイ私でも知っている。ホームズの相棒のワトスンが医師だったことは理由のナイことではナイ。おそらくホームズは双極性障害を患っていたと思われる。彼のコカイン中毒は、事件のナイ日々の退屈からくる鬱病を因にしているとみてイイ。事件の真っ只中のホームズはどうみたって躁病だからナ。天才とキチガイは紙一重というのはマチガイで、天才はキチガイだというのが嫁の私見だが、まあ、紙一重という関係ではなく表裏くらいのもんだろう。ホームズは天才だから。私にもワトスンのような相棒がいればいいとは思うが、伴侶と相棒はチガウ。それに私の天才の部分はほんの演劇という一部でしか発揮されず、アトはただのろくでなしだからナ。
アルセーヌ・ルパンとホームズが争闘した『ルパン対ホームズ』はルパンの産みの親のルブランによってたしか二作品ほど書かれている。いわゆる『ゴジラ対キングコング』みたいなものだが、さすがにドイルへの配慮もあってルパンが勝利するワケではナイ。とはいえ、私の読んだ限りでは、私はルパンに余裕があったという感想を持っている。それは事件のアトから登場しなければならない探偵のハンディというもので仕方ないことなのだが、ルパンは江戸川乱歩の『黄金仮面』で明智小五郎とも対決している。少年時代に読んだものなので、内容はまったく記憶していないが、なんとなく乱歩はここではルパンに花を持たせつつ、明智の余裕を書いていたようなおぼえがある。
私は明智小五郎より二十面相のほうが子供のときから好きだったし(それで、その偽伝を書いた)、ホームズものはやや幼稚だが、ルパンものはいつもロマンスが登場して大人っぽく、ルパンそのひとは好みだったが、小説はワカリにくかった。
ルパンが愛人と二人で、屋敷にいるところを警官隊に包囲され、逃げ場がどこにもナイのに忽然と姿を消すプロットがあったが、小説のタイトルは覚えていない。ただ、そのトリックがあまりに意表をついていたので、これはアンフェアなのではないかと当初考え、いやこっちのほうがスゴイんじゃナイだろうかといまでは考えをあらためている。ネタバレとやらになるので、そのトリックは書かない。
ともかくルパンは颯爽としていて、スタイリッシュだった。その点、二十面相などは中小企業の親父といったイメージがどうしても脱けきらない。いってみれば二十面相のほうは子供だましなのだ。それに比してルパンはインテリジェンスな、というのかなあ。で、どっちも健康的なのだが、ホームズは先述したように、私からみるとビョーキのひとだ。ワトスンはホームズの双極性障害(というコトバ、疾病は当時なかったけど)をよく理解していたのだと思われる。そういったものに対する向精神薬のナイ時代だから、コカインでもやんなきゃもたなかったんだろう。

かみさま いたら イイな

かみさまがいたらイイなと ボクはおもいます
もし かみさまがいたら
ボクは かみさまに 泣き叫んで 怒りまくって ののしって
つかみかかって ゆさぶって たたきつけて つきとばして 
そうして かみさまを どげざ させて
「すんません、わたしが、悪うございました。わたしがマチガッテいました」
といわせたいとおもいます

かみさまは ぜんちぜんのうで ばんのうだから
それくらいのことはできるとおもいます

かみさま いたら イイな と ボクはおもいます
そうしたら そんなかみさまに 抱きついて
抱きしめてあげたいと おもいます 

黄昏への帰還⑰-ほんならみんなキチガイや-

表現はそれ自体「疎外」を伴っている。というより「表現する」ということは「疎外を生む」に等しい。「生きるということとは、原生的疎外と純粋疎外とともにある表現だ」といってイイ。この場合「生きる」をヘーゲルの観念論弁証法から底上げされた唯物論弁証法という運動の形態にニュートンの「運動の3法則(慣性の法則/運動方程式:F=ma/作用・反作用の法則)」を対応させても、科学哲学派すらからもNGが出るとは思えない。私たちは、「ただ生きて」いるのだと思い込んでいようといまいと、内界や外界や近界、環界への表現を表出して、そのぶん、疎外を受けている。「生きる」という等速直線運動に加速が加わると、重力が生じる。この重力は、べつに加速度重力でなくても、等価原理から、自己自身が受ける重力ならば、なんでもかまわない。この重力に相当するものが、躁や鬱であり、それは「生きる=表現」という作用に対する反作用だ(と思うほうがワカリやすい。実際には慣性力には反作用というものはナイ)。加速度は導関数から求められるものだから、微積分という図式的、幾何的な「像(グラフ)」としてイメージすることが出来る。唯物論弁証法の立場からいうワケではナイが、私たちは自然の一部として<身体>を有しているので、<身体>そのものも、内界、外界、近界、環界からの重力を受ける。つまり<精神力>のみならず<身体力>もまた、重力の場にさらされる。この精神力と身体力という自然であるものが、表現するという作用によって非自然的にふるまうために、反作用として受ける重力を心的現象としての躁鬱とかんがえる。たいていいままで述べてきたことは以上のようなものだ。だから、双極性障害は疾病ではなく、避け得ない、ひとの存在がもつ「不可避の本質」とかんがえられる。「ほんならみんなキチガイやいうてんのか」という半畳に対しては、そのとおりだとしかいいようはナイ。ただ、チガイがあるのは、その重力の源の「加速度」だけだ。加速度による重力に耐えられる限界というものがひとにはある。この限界を超えると、ひとはペシャンコになる。微分係数の比率の著しい差によってみいだされる急激な平面上のグラフの変化はその重力の大きさそのものだ。幾何的にみれば、あたかも突っ立った縦線のような部分がグラフにみいだされれば、そこでひとは躁鬱、何れかの状態、情況にあるといってイイ。「みんなキチガイ」なのだが、ふつう、グラフの勾配が縦線になるような極端な変化をみてとることはナイ。だが、この微分から微分方程式を予測してみると、そのひとのグラフの全体像が極端な加速度の連続だということがワカルこともある。さすれば、そのひとはその現在、躁鬱の何れかの領域にあるといってイイ。この領域は、相空間の雲状において濃い密度をもっている部分(積分すれば、その部分がどういう部分なのかグラフでもみてとれるはずだ)で、ゆらぎが激しい部分に対応、相当する。では、何故、ひとにはそういう急激な加速度が現れたりするのだろうか。残された問題はそこだけになる。

2013年4月18日 (木)

黄昏への帰還⑯-ユリイカ、キツイカ-

「ただ生きる」ということには何の意味も価値もナイ、というのも、「ただ生きる」ということはひとにとって不可能なことだからだ。それは能力の問題ではナイ。ひとの存在の本質だ。ひとはどうしても「ただ生きられない」ようになっている。だから、サルトルのいった「実存は本質に先立つ」てな、アリストテレス批判は「本質的」に成立しない。ニーチェが「神は死んだ」と声高に述べるより以前、カントはスピノザを軽く退けている。ヘーゲルは神に対してひとに「絶対精神」という存在を持たせたが、これはからくもスピノザの継承だ。そうして、ニュートンの「極限」と同じことだ。しかし、カントは概念の類別において、神は「存在を証明することも出来るし、存在しないことも証明出来る」存在だと、スピノザを一蹴している。何れにせよ、神はここまでの命運、そのアトは宗教というものに変容する他なかった。つまり、「神は在るか無いかという対象ではなく、信仰の対象」になった。サルトルがいくら「無神論的実存」を述べて、「自由」をひとに与えても、これまた本質的に「無神論」というコトバ(概念)自体が矛盾している概念で、神は無いというには「神」というものをまず創らねばならない。愛人(あるいは伴侶、もしくは情婦)だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、もし、神が降臨したとき、いくらでもひとは「あんたなんか神さんとちゃう」といえるてなことを『第二の性』でいうてはるが、神さんから「おまえにはいわれとないわ」といわれればそれまで、が信仰というもので、宗教というものだ。と、このへんまでが、キョーヨーというもので、教養はつまるところヒトにみせびらかすものだ。しかし学問はチガウ。学問はあくまで「学び問う」ことで、「答」ではナイ。つまりは「~と、こうワテは考えてまんねん」という「考え」の述べることだ。「学問」は「学答」ではナイのだ。
ヘーゲルの発明は「絶対精神」などという陳腐なものではナイ。「観念論弁証法」という「運動」という考え方だ。もちろん、この「運動」はニュートンの運動力学に直結するものではナイ。しかし、それが<身体性>の「内界」「外界」「近界」「環界」と関係してくれば話はべつだ。ニュートン力学の神髄、微積分は、充分にヘーゲルの発明の「運動」とも関わってくる。とはいえ、微積分をそのままニンゲンの在り方に対応させてもしょうがナイ。それは単に形式論理に終わる。何故なら数学とは徹頭徹尾、形式論理だからだ。数学のオモシロイところは、その原点、根源、根っこ、基点が、これまた徹頭徹尾イメージだということだ。点も線も面も概念としてしか存在しない。単なる表現に過ぎない。たとえば点を表現すると「点には面積はナイ」というようにいえる。そんなもんがこの自然世界の何処に在るか。ナイ。面積がナイなら何にも無い。しかし、点は概念として存在する。概念としてというより、イメージとして。イメージという表現として。
「ただ生きる」ことが出来ないのは、ひとはどんなにジッとしていても、常に「表現」してしまうからに他ならない。表現はコヒーレンスだから、ゆらぎだから、エネルギーだから、他のエネルギーと干渉してしまう。これが「関係」と「了解」というシロモノだ。もし、世界にただ独りしかヒトがいないとしても、そのヒトは自分自身とやはり関係し了解するようになっている。この本質からは逃れられないようになっている。ニンゲンは少しも自由ではナイ。ひとは不自由(不条理)なのだ。そこから脱するためにサルトルはアンガージュマンたらいうて、マルクス主義者になったが、けっきょく「実存」というのは、「おいらが大将」というてるのに過ぎないと、構造主義者たちに袋叩きにあって、晩年はよれよれのコート一枚の生活者になった。と、これもキョーヨー。そんな他人のことはほんとは、私、どうでもイイ。
私が、加速度というのは、いまジッとしていたひとが、突然、「ユリイカ」といった、に等しい。「何だか急に重力のチガウ天体に放り込まれた気がした」という直観もまた同じことだ。それまで等速直線運動していたものが、ふっと立ち止まったときに受ける慣性の重力であっても、充分同じ。何故ならこれを等価原理というのだから。いま、ひとが躁鬱何れかを感じたとする。これは、そこで表現が加速したことを意味する。このとき反作用として重力が生じる。それが慣性だったとしても、あるいは、内界、外界、近界、環界からの作用だったとしても「重力」として表現出来うる限りかわりはナイ。おそらく双極性障害と称される事象はこの<表現的重力>として心的現象からやって来るものだ。

黄昏への帰還⑮-幕間(まくあい)-

幾つか留意しておくことがある。瑣末なことからいうと、climax(前回のsubtitle)というのは「最高潮」という意味だ。最高潮がドラマなどの創作物では終盤に多いので、「ついにクライマックスを迎える」(この、「ついに」を漢字で書けば「終に」だ)、というふうに、ドラマの最後の部分と思い込んでいる人々も多いが、climaxはほんらい、そういう意味ではナイ。
次にたいていの苦笑、嘲笑を自虐的(被害者妄想的)に記せば、どこからともなく「おいおい、ついに腎虚にニュートン力学をまぜこぜしだしたぞ」という声を耳にすることが出来る。中医学に近代(古典)力学だから、これはとんでもないcategory error のようにみえるのも無理からぬことだ。しかし、もともと、ここには「演劇」の概念も加えてあった。私たちは、ケチくさいことはいわない。たとえばニューロンの仕組みだけでひとの意識や観念や表現、幻想、創意などを述べようなどと大脳皮質しない。(大脳皮質しないというコトバはもちろん揶揄の造語で、大脳皮質に私たちを閉じ込めたりしないということだ)。
次にお復習いをしておく。この『黄昏への帰還』の目的は、以下の命題(命題というのは課題ということではナイ。これまた何度もいうように主述のある文脈はこれを命題というのであって、だいたい「命」なんぞつけるから、なんだかシャカリキになるんだべ)を定義づけたり証明したり、考察したりするための試行錯誤だ。
①双極性障害は治癒出来ない---何故ならそれは疾病ではナイから。
②従って演繹すれば、精神科治療はすべてとはいわないが、第一義的には無効になる。
③補足すれば、精神科治療は第二義的にはまだ有効性を持つ。
④双極性障害が治癒不可能だというのは、医療の不完全性ではなく、本質的なことだ。
⑤治癒出来ないということは、けして敗北を意味しない。
⑥それが疾病でナイのなら、他に対峙する方法は存在する。
⑦対峙するとは、「うまくやっていく」という程度のことをいう。
私は私の演劇論(表現論)を駄築するにあたっても、数々の分野のそれぞれの考え方を演繹してきた。ここでも、その方法、方針は変わらない。
とはいえ、マチガッテも「ニューロンには加速度がある」などという逸脱だけは避けていく。「双極性障害とは日常(等速直線運動-慣性の法則)に、ある「加速度」が生じ、それが「重力」となり<身体>に負荷することによって生み出される心的現象だ」というとき、それらの用語は概念として使われているが、どれだけの加速度(単位)がどれだけの重力(単位)で、<身体>がどうなるかということをつらつら論じているのではナイ。前述した①~⑦までの命題においての総合的な「こうとちゃうんか」がいえればイイだけだ。治療の方法などはまったく私にはワカラナイ。ただ、私の固有性が私たちに共通する範囲で、普遍化出来れば足りる。
たいせつなこと、重要なことは、「クスリひとつ処方するのにも、それを判断決定した医師という<人格>が介在しているということ」であり、「患者はクスリと疾病の媒介などではけしてナイ」ということだ。病気の治療にあたるのは医師や薬剤師など医療関係者だが、宿痾の影響をもろに被っているのは、患者(私)それ自体だ。私の固有性が、私の宿痾の正体、本質に迫りたい、対峙したいというのは極めて<強い>好奇心と反抗心だ。
ここまでにおいて、なんとはなしに、ああっやっぱりそうなのかと思っていることをいってしまえば、この疾病に罹患したとき、私が最初に感じたこと「何だか急に重力のチガウ天体に放り込まれた気がした」という直観に、どうやらもどってきているいうことだ。もとより私の宿痾はそういう<身体的>異変から発現している。

2013年4月17日 (水)

黄昏への帰還⑭-climax-

①「中医学でいうところの[腎虚]とは、中高年齢が体験する精力減退、耳鳴り、めまい、難聴、脱毛、白髪進行、歯のぐらつき、足腰衰弱、頻尿、肩こり、背筋痛・腰痛・関節痛、脱力感、不眠、不安感、無気力、喉の渇き、免疫力低下、よく風邪を引く、寝汗、手の平足の裏のほてり等の諸症状をいう」
②「等価原理、加速度運動しているときに働く慣性力と重力は区別できない」
③「エネルギー保存則においては、エネルギーの総和(ポテンシャル(位置)エネルギー+運動エネルギー)は常に一定である」
④「F=ma(Fは力、mは質量、aは加速度)」
⑤「運動エネルギーは大きさだけを現し、運動量は大きさと方向を持つ(ベクトルを持つということ)。運動エネルギーを変化させるのは<力×距離>、運動量を変化させるのは<力×時間>」
⑥「物体Aが物体Bに力(作用)を及ぼすとき、同時に物体Bは物体Aに同じ大きさで向きが正反対のちから(反作用)を及ぼす。両者は同時に働く」

およそいま気になる、私が勘、もしくは感覚的に引っ掛かってきているものを羅列してみた。前回で、微分係数から私たちは「加速度」を引っ張りだしてきたが、加速度は、関数をどんどん微分していけば(導関数と称する)得られる。微分係数をさらに微分するのだから、瞬間の速度を細やかに分析していっているという概念だが、ここでは、その字のごとく速度に速度が加わって、加速する度合いと思ったほうがワカリヤスイ。
①は、双極性障害の<身体>における異常や病的な症状をいいあらわすのに適当だと思われる。何故なら「腎虚」は知ってのとおり房事において用いられることが多く、房事過多は腎虚の因ともなっているが、私たちは、恋愛-性行為が生殖を目的としてもしなくても、それは日常営為「等速運動」の中では、ある「加速」を意味するのではないかという観方をしたいからだ。②においてはアインシュタインの相対性理論でお目にかかるものだが、具体的にいえば、自動操縦のロケットが宇宙を飛んでいるとき、乗務員に「重力」がかかったとする。その重力は、ロケットが加速したために起きた加速度による重力(慣性力)なのか、ひじょうに質量の大きい天体が傍にあるために生じた重力なのかを区別出来ない。つまり同じものと考えることが出来る。というものだ。ここでは、内界、外界、近界、環界との関係を「重力」という概念によって結びつけたい。③④⑤⑥はニュートン力学だが、③におけるエネルギーは力学エネルギーだけを示すワケではナイ。熱エネルギー、音エネルギー、光エネルギー、原子や分子のエネルギーから核エネルギーなどを網羅していると理解しておく。
③からワカルことは、運動エネルギーが増していけば、ポテンシャルエネルギーは減衰していくということだ。房事でピストン運動を続ければ疲れるのはこのためだ。ここでは⑤でいう運道量が変化していく様相もみてとれる。なお、④⑥に、「慣性の法則を足せば、ニュートン力学の運動の3法則というものになる。
以上の、いわばエネルギーというものにおけるさまざまなhintから、双極性障害の本質をはじき出してやろうという魂胆だ。主に注目すべきは、やはり「加速度」ということになる。双極性障害は日常(等速運動)に、ある「加速度」が生じ、それが「重力」となり<身体>に負荷することによって生み出される心的現象だということがいいたいのだ。

2013年4月16日 (火)

黄昏への帰還⑬-死にたい、死のう、死ねっ-

まず、彼(患者)は、自殺するということにおいて、自身の<意識>を無くしたいとかんがえているのではナイ。いうならば、自身の<身体>を消去したいと念慮している。さらにいうならば、その<身体>のimageを消し去りたいと望んでいる。もっというならば、その輪郭を持ったimageを絶ちたいと、ほんとうは願っている。しかしこれは奇妙なことだ。何故なら、imageはバクゼンとしていて、輪郭などナイに等しいからだ。すると彼(患者)は消し去ることの出来ない不可能な思考の真っ只中に置かれているといってもいい過ぎではナイ。では、この矛盾ともいえるバクゼンとした<身体>のimageはどこからやって来るのか。彼(患者)が関係、了解しているものは、内界、外界、近界、環界、においての時間と空間の他は存在しない。とすれば、そのどこからかから、念慮はやって来ていると考えなければ他に余地はナイ。
ここでは、コヒーレンス(自己による自己生成)と、コヒーレント(自己のゆらぎに干渉して生じる生成)のあいだに、なにか深刻な齟齬が生じているとして、かんがえてみる。たとえていうなれば、ポテンシャルなエネルギーが、運動エネルギーに疎外されているといった感じだ。もっと具体的に卑近にたとえれば、鉄棒運動で、逆上がりがどうしてもうまく出来ないことが、ポテンシャルエネルギーのせいなのか、運動エネルギーのせいなのか、自己判断がまるでつかないで混迷しているというふうだ。つまり、二つのエネルギーのどちらかが、どちらかのエネルギーに疎外されて、彼(患者)は自己疎外に陥っている。
ポテンシャルエネルギーは空間的だし、運動エネルギーは時間的だと考えられるから、もし、この矛盾や疎外が二つのエネルギーのなんらかの不一致から生じているとしてイイならば、その双方の初期値を相空間にとって双方を関数とし、いつものように微分係数(双方の比率)を求めていってもイイ。そのように幾何的に写像すると、「理由もなく」死にたい、という彼(患者)の心情念慮には「理由」がナイゆえに初期値というものがナイので、初期設定のナイ軌道が現れることになる。するとこの軌道は数多に存在することになるので、軌道というよりも、線状の集合、さらには殆ど線分と曲線で塗りつぶされた、ただ領域だけのある雲状の形態で相空間に描かれる。領域があれば、それを微積分すれば、ある部分ごとに、さまざまな彼(患者)の身体的憂鬱と対応する点(もしくは、ゆらぎ、波)が出現するのが、幾何的にはみてとれる。エントロピーの第二法則から詰めていけば、「死」はこれを一気に平衡状態にしてしまうことになる。そうするには、相応のエネルギーのうねりが必要になる。鬱病の患者が、自殺を念慮はするが実際に死に至らないことも多いのは、自殺に至るには、この「相応のエネルギーのうねり」が必要で、いま彼(患者)には、そのエネルギーも不足しているからだ。死にたいとは思うが死なない(もしくは、死ねない)という「念慮」が念慮でオワル所以はこのあたりにある。
しかしいま、彼(患者)がほんとうに死んでしまうか、死なないでおくかは、あまり重要な事柄ではナイ。私たちが求めているのは、空間的なエネルギー(ポテンシャルenergie)と時間的なエネルギー(運動energie)を関数とした微分係数の比率の何がどうなると、齟齬や不一致が生まれ、念慮がやって来るのだろうかという問題だ。これは固有のものだろうか。そうなると、まさに相空間の中の雲の領域に対して「雲をつかむ」ような気になるが、この雲状の集団の密度が分布されているものとして、ある確率で、その分布密度の一部がコヒーレンスをおこすのに充分な状態ベクトルを受けるとしたら、その確率はなんらかのきっかけとなる引き金(trigger)によって引き起こされるのかも知れない。で、あるならば、引き金(trigger)は固有であっても構わない。あたかも「刺激と反応」のような、単純な生命体の生理反応であっても構わない。そうするとそれは、「死にたい」や「死のう」というよりも、「死ねっ」という強い表現的自己の表現で彼(患者)を見舞うのではないか。この「死ねっ」は、他者からみて、どんな他愛もないことでもイイ。彼(患者)にとって固有なのだから、それが、彼(患者)にとって「無慈悲」な出来事であればそれで足りる。演繹すればさまざまな身体的憂鬱の情報を一気に収斂させてしまう、trigger、「死ねっ」という「無慈悲」。一気に係数の比率が変わるそれは、時間と空間から計り知れば「加速度」というものになりそうだ。

2013年4月15日 (月)

黄昏への帰還⑫-私は私のカラダを知らない-

鬱病の症例を例にとってかんがえてみる。もちろん、これは精神科医のデータというよりも、患者(彼)からの訴状だ。フロイトは『精神分析入門』で、夢の供述について、Krankeがたとえ実際にみた夢でナイことを口にしてもそれは構わないとしている。そういうところがフロイトの卓見だし、夢分析の夢占いとはチガウところだ。つまり夢の記憶と(いうことに)して残っている部分を患者が口にすれば、それは彼の精神作用だと規定できるということだ。
患者(彼)の述べる症状を幾つか(私のそれも含めて)羅列してみる。
・イライラする・陰々滅々・仕事する気がしない・気力がわかない・何をやるのも鬱陶しい・他人に逢いたくナイ・落ち着かない・じっとしていられない・厭世・だるい・めまい感がある・地球の重力や磁場が変化したのを感じている気がする・乗り物酔いがつづいているような感じだ・頭が重い・寝つきが悪い・ぐっすり寝た気がしない・疲労感が強い・aggressiveになる・過去のことを後悔する・どこにいても、自分ではナイ・楽しくない・涙もろくなる・気が重い・興味がわかない・罪悪感がある・加害者妄想がある・意味なく不安になる・集中力が失せる・すべてが徒労に思える・なにか不治の病なのではナイかと思う・仕事を(職種を)変えたい・
と、ざっと思いつくままに書いてみたが、このどれをとっても、ほぼ共通することがある。まず、それくらいで「死ぬ」ことはナイだろう。重篤な感染症に罹患しているのでもあるまいし、致死率に至るものはこの中のどこにもナイ。もちろん、それくらいで自殺を考えることもあるまいに、と思える。たいてい生きていれば、それくらいのことはあるからだ。もちろん、症状の中には希死念慮(自殺したくなる)もあるのだが、それは、これらの症状の帰納されたものとして在るものと、もうひとつ、「理由もナイのに自殺したくなる」というというのがある。何れにせよ、「自殺したくなる」に変わりはナイ。それくらいで死ぬことはナイだろうに「死にたくなる」のだ。
もうひとつの共通項は、その症状(症例)の殆どが<身体的>なものを付加されているということだ。数々の症状はともかく「憂鬱」につきるのだが、それらは「身体的憂鬱」といってもいい過ぎではナイ。とすれば、「自殺したい」というのは、単純にいってしまえば、「そういう身体を消してしまいたい」という欲求、切望ということになる。
演技者にとって、もっとも邪魔になるのはその<身体>だ、ということについては、さまざまな演技論(学)の書籍を繰ってみても、明確に指摘されてはいない。演技者は役によって身体を取り替えたいとおもうだろうか。おそらくそうは思わない。演技者は逆のことをかんがえる。「自らのこの<身体>=カラダで、役を演じてみせよう」。これを「演技=演じる技術」という。演じるということと、演技するということはチガウのだ。演技とは何かと問われれば、最も単純明快な答は「演ずる技(わざ)のことだ」だと思っておけばイイ。
演技者はその<身体>を消し去ることが出来る。演技者にとってはそれは可能なのだ。もちろん、カラダのカタチが変貌するワケではナイ。体重くらいならかなり増減が可能だろうが、身長はそういうワケにはいかない。それが可能だというのは、観念として、もっとコトバを選べばイメージとして、だ。ロミオもジュリエットもハムレットもオフェーリアも実在の人間ではナイ。だから、原則的にはどんなカラダをしていても構わない。そのイメージなら演技者は創ることが出来る。すると、演技とはそのimageを如何にして実際の舞台に具現させるかという技のことをいうことになる。ここでは、よく演技力というコトバも用いられるが、「演技力」には、演技の実力を端的にいう場合とそうでナイ場合がある。そうでナイ場合については、ここではcategory overになるので述べない。
私たちは私のことをワカッテいないが、ココロはなかなかわかりにくいとしても、私たちは私のカラダ(<身体>)=外界を実はワカッテいない。しかし、このカラダというものはワカルようにすることが出来る。演技者の鍛練はそこから始まる。演劇における肉体訓練というのは筋肉の増強を図るものではナイ。自身(自己)のカラダ(<身体>)に常に目覚めさせてていることをいう。
ところで、彼(患者)は、自分の身体を消去したいと考える。しかし、精神だけを消去したいとはまず考えない。気力が蘇れば、と願いはするが、それはその気力によってカラダが正常に動くことを意味している。どこにいても自分ではナイという感覚は、もちろん、自分のカラダそのものに向けられたものだ。彼はほんとうはこう考えている。「この憂鬱な<身体>をなんとか出来ないものか」。だが、そのカラダのことを実は何もワカッテいないのだ。彼(患者)はカラダのことを考えているようで、実は、カラダのimageだけをバクゼンと輪郭づくっているに過ぎない。

2013年4月14日 (日)

黄昏への帰還⑪-ただ独りだけの目覚め-

いつだったか、なんの質問をしたのか記憶にナイが、私のその問いにこう答えられたことがあった。「・・・なのは、オレは自分自身に興味がなくなったからなんだ」
そのときはよくワカラナカッタが、ちょうどいま私は感覚として、感触として、それがよくワカルようになった。私は「私」に対して殆ど興味がナイ。ただ、私が創るもの、好きなものに対してだけ興味がある。興味があるというのは、何らかの生きる目的、理由の対象としてそれを選択しているということを意味するということも出来る。とうことは、それらが生きるという目的、理由の対象でナクなれば、私は死を選択するかも知れない。ただし、これは直截的に自殺することを意味しない。妙ないい方かも知れないが、私ふうにいえば、テキトーに死ねばそれで済むことだからだ。テキトー(適当)に死ぬということがどういう死に方なのか、そんなもんは、テキトーなんだから、こうだと断定していえるものではナイ。しかし、このイイカゲンともいえる死に方、死への対応、対処が、逆に双極性障害とやらから私自身を、その死に対する誘惑(希死念慮)から遠ざけ、反抗するというカタチで私を生きさせている(守っている)ことはまず、マチガイはナイと思われる。
だいたいにおいて「死ぬ」ということに私たちは敏感であり鈍感であり、また無関心であったり、必要以上にこだわり過ぎているきらいがある。女性が性的なecstasyにのぼり詰めるとき「死ぬ、死ぬ」てなことは汎用されているコトバじゃないか(「いく」というのもあるが、ありゃあ、行くんじゃなくて、逝くだろう。だって、どこへ行くのかワカンネエんだから)。男性は死ぬとはあまりいわない(ほんとに死ぬことはあるみたいだけど)。
ひとは死ぬのだ。どうしたって必ず死ぬ。「不条理」というコトバを腑分けしてみても、単純にいえば「ひとは生きていたいのに必ず死ぬ」ということになる。必ず死ぬのに、つまりそれは絶対的であるのに、死ぬことについて「不安」になったり「恐怖」したりするのは、何故だろう。おそらくそれは二重の本質的な矛盾からきている。
ひとは(自己は)自分のことがワカラナイ(まったくではないが三割くらいしかワカラナイ )これはゲーデルの不完全性定理からも数学的に導き出されたことだ。またひと(自己)は自己の<身体>を自己了解するのに、自己の「身体=器官」をもってしている。これは固有の身体を固有として識知出来ないということを意味している。もちろん、一般的な、人間としてのそれは、臨床的に数値で判断がつけられるところだが、たとえば風邪をひいて具合が悪いのは、自身(私)がそう苦しむのと、他人の場合では、同じようだがあきらかにチガウというところがある。平熱の高いひとはある程度の熱には平気かも知れないし、微熱に弱いひとはちょっとした熱でしんどくなるだろう。鼻水の量だってチガウだろう。さらにいえば風邪は世界観すらも変えてしまうことがある。要するに「ワカラナイ」のだ。ここに私ではワカラナイ私というものが在るのだ。これは矛盾だし、自己疎外だ。逆に問い直せば、何故、それをワカッタような気になって、私たちは生きているのだろうか。
トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の冬』にムーミンだったかが、すべてのものが冬眠しているのに、自分独りだけが目覚めてしまったら、どうなるんだろう。と、不安やら恐怖やらにふとおそわれるプロットがあるが、あの入眠と等価の覚醒は、読むものが読めば、これは鬱症状のときの雰囲気そのままだなと、思うにチガイナイ。なにか、類的なもの(たとえば「死」)から離脱するかのような固有の状態、自殺における「死」は類的なものではなく、固有の死、つまり「死の固有性」の発動ともいえる。ここに類的な死の不安や恐怖とはまったく正反対の「私の消去」というベクトルが現れる。

2013年4月13日 (土)

黄昏への帰還⑩-自殺病などという病気はナイ-

私が吉本学徒である理由は、その思想のromanticismにある。これはCamusの文学がもつhumanismが好きだということと通底し、太宰のクソマジメで果敢な覚悟の文章の上手さに傾倒し、安吾のハッタリの勇気に共感するwaveとして、私のコヒーレンスの構造になっている。さらには賢治の歯ぎしりから生まれた数々の陽のあたらぬ東北型作品(語弊をおそれずにいうならば)の陰湿な諦念と、岸田國士のスタイリッシュな文法(筆遣い)は適度なbalanceを私にもたらしているのではないかと、自矜してしまう。私に力があれば、トーマス・マンのような大長編小説を書き残して遺書の代わりとしたいところだ、と、まあ、こういうのが表現的自己をかいまみている自己(私)自身、用語を変えていえば、デフラグしてみた私なのだが、こういうことを述べると、おや、ずいぶんと躁状態ですな、とまた精神科医の眉間の皺を増やしてしまいそうだワナ。
閑話休題(-それはさておき-・・・と読むそうな)
おまえは双極性障害(躁鬱病)を疾病ではナイと、いいたくてたまらない、現にいっている真っ最中のつもりなんだろうが、実際にその疾病の結果、自殺するひとがアトを絶たないし、おまえ自身も希死念慮に苦しむことか多いんじゃないのか、どおうなんだあ。という他者、読者(つまりこれもいわゆる表現的自己の写像なんだけど)の半畳が入りそうな気配は、これでも感じとっているのだ。
-いま「表現的自己の<写像>」という概念を用いてみた。何故、他者が表現的自己なのかを説明するには、そういうふうに図式的に述べるとわかりイイかと思ったからだ-。
で、自殺という行為を考察していくことにする。自殺を彼が考えるとき、彼はどのような心的情況に在るのか。くそ丁寧に繰り返し述べておくが、心的情況というとき、この心的というのは、精神的な、という内界の情況だけを表しているのではナイ。必ず<身体>という外界が、外界を含めて環界との二重の構造をとっていることを意味している。つまり、<身体>が環界と外界の二つの関係と了解の領域に在るということだ。関係というコトバをべつの概念に置き換えれば「空間性(的)」だし、了解を同じくそうすれば「時間性(的)」ということになる。演技者が他の相手役(複数の場合ももちろんある)といま舞台に立って在るとき、演技者は各々の役柄の相手役に対して関係を持っているし、相手役がどういうものかを了解している。つまり、ベクトルとしてそれを認識している。別にこれを「行列」として理解してもイイ。「空間性」という「行」と「時間性」という「列」とすればイイだけのことだ。では、その「行列」が相手役ならば、演技者主体はどうなるのかといえば、その「行列」は演技者主体の表象の写像だと考えればイイだけのことだ。そうすると、表現的自己というものが、他者にたいしては自己の写像だということも納得がいくはずだ。ベクトル変容、状態ベクトルという概念もここからきている。これは近界に対しての位相ということになるが、同じように環界に対しても、演技者はそういう位相をとる。
いま彼は鬱状態にあって自殺を考えている。(しようとしているのではなく、そうするかどうかを考えている)。この場合、ふつういうように彼を「そこまで追い込んだ」ものはいったい何なのだろうか。その具体性はさまざまあるにチガイナイ。私たちはその具体性を演繹とみたてて、根本的な本質的な原因に迫っていく方法をとってみることにする。ここでいいたいのは鬱状態、鬱病だから自殺しようとしている、といった「自殺したくなる疾病だから自殺したくなっている」的、精神科医師の脳裏は借用しないということだ。

2013年4月12日 (金)

黄昏への帰還⑨-悟りは常に啓かれている-

自分は「クヨクヨ」しているから「後くされ」ていることが気になるのか、「後くされ」ているので「クヨクヨ」しているのか、たいていの場合後者が結論めいてしまうが、演技者は舞台の進行に乗っかりながらも、自身の出番でナイとき、あるいは登場していても特に芝居の進行そのものに影響のナイ、やや break time というときに「この先は気をつけないといけないな」と考えたりするが、それは少し二流、もしくは駆け出しの新人の考える「反省」であって、実力のあるもの、場馴れしているもの、才能あるもの、要するに出来る演技者はそうは考えない。では、どう考えるかといえば、たいていは「あれはなかったことにして、と、さて」といわば初期設定を壊してしまう。それは虚構だから出来る、可能なことではないのかといわれそうだが、何度もいうようにこの世界(難しくいえば表現世界面(空間)」には「虚構それ自体」というものは存在しない。このベクトルでいえば、「後くされ」というものは、彼自身がつくり出した幻想、表現でしかナイ。そりゃあ、egoismじゃないの、ともいわれそうだが、「いま-ここに- いる-わたし」「わたしは-いま-ここに-いる」が、関係の偶然性におけるさまざまな確率のひとつであって、囚われている過去の「後くされ」が表現(幻想)だとするならば、自分(わたし)もまた表現的自己という対象でしかないのだ。演技者が常に役と相手役を表現的自己として扱うように、自身←→自身は常に次を表現することが出来る。そうして、次を表現するために初期設定を壊すことが出来る。どのみち引っ掛かってくることならば、拘泥から単なる記憶へと変容させることが出来る。これをまた少々難しいいいかたでいうならば、因果律を破るということになる。およそ、釈迦-仏陀の哲学、思想はここに収れんしている。宗教的以前の釈迦の思想というのは「因果を断ち切る」にはどんな方法があるか、何故ならば「因果を断ち切る」ことこそ、生きること、生まれ出たことの苦しみから逃れる方法だと悟ったからだ。ところで、この因果律を簡単に破り、初期設定を単純に壊してしまう状態に自身の心的情況を変容させることが容易になったとする。それが、自身で確率的にせよ可能になったとする。このとき、どういうワケか、「ちょっと躁状態じゃないですかね」と精神科医は困惑したように患者となった彼にいうのだ。しかし、変わった(変えた)のはけしてその患者(彼)の躁鬱の状態ではナイ。患者(彼)が自らの躁鬱を操ったなどということは、おそらく患者(彼)からしてみれば毛頭、おぼえのナイことだ。躁鬱の状態の変化として、つまり「病態」の変化として患者(彼)をとらえたのは、精神科医の精神医療(医学)の尺度(物差し)だ。演技者は自身の「ある失態」を初期設定として、これを壊してしまった。「あれはナシ」とした。何故ならチガウ初期設定から始めるためにだ。で、ここで、もう一度問うてみる。日常においてこの<非日常>の場でおこなったような破壊、「あれはナシ」が出来る、可能、なのかと。釈迦-仏陀の哲学でいえば結果における執着(しゅうじゃく)を無くすということが、まるで悟りを啓くかのようなことが出来るのかと。で、もう一度答えてみる。可能だし、極端にいえば可能でナイほうがオカシイ、と。何故なら、私たちが現時点だと信じている「結果」は、確率のひとつから私たちが任意に選んでいるのに過ぎないからだ。すると「他を選べばイイ」「他を選んで」みれば初期設定自体は無効になる。「後くされ」で「クヨクヨ」していることを、「後くされというもの、クヨクヨするということ、を学んだ」。これは表現の変容だ(表現に過ぎないじゃないか、現実はそんなふうにはいかないよ、というヤカラには、再度述べておく。この世界には「現実それ自体」というものは存在しない)。この表現的自己のベクトル変容を双極性障害という病態にされるのは、たまったもんじゃねえな、というのが、患者(私)の偽らざる感想だと、いまのところそれだけはいっておくことにする。

2013年4月11日 (木)

黄昏への帰還⑧-初期設定は破壊出来る-

この「後くされ」は演技者がそうであるように、たいていは「内発語」として現れてくる。演技者はともかく次のせりふやactionに向かわねばならないから、「後くされ」に拘ることは失敗の連続を生むことへの警戒を怠らない(怠るものも中にはいるけど)。だが、日常的にこの「後くされ」状態に置かれ、かつそれが異常な範疇に突入したものは、「内発語」として、つまりココロのつぶやきか、あるいはもっと言語以前の心的現象として、これを繰り返す。「内発語」としては「繰り返し・・・ぶつぶつと同じことを」になる。外界(身体)は近界や環界に対して現在にあるはずなのに、内界はその関係を了解していながら現在に不在の感触を持っている。ちがえていえば、時間的なものと空間的なものが錯綜している。「すんだことにクヨクヨしている」といってしまえばそれまでだ。ただ、その「クヨクヨ」が未来的にも終わらないという認識を彼は持ってしまう。
演劇なら終演してしまえば「今日はヤバかったなあ」ですむ。しかし、生存は生存の終りまでは生存は続くので、生存が続く限りはその「クヨクヨ」は永続するという時間的な捕捉は空間的なものとのベクトル変容の錯綜なのだが、いうなれば、彼の「クヨクヨ」の時間は空間的なもののに浸食、侵攻されていることになる。逆にいえば、空間的なものが時間的に浸食、侵攻さている。だから、場所を変えようと、「クヨクヨ」の「後くされ」は収束しない。この「クヨクヨ」や「後くされ」を消去させるには、「クヨクヨ」や「後くされを生じさせたものと同じことを、もう一度試行して、これを以前よりよりいいカタチで終わらせるという「反復」しか方法はナイ。江戸の仇を長崎で討つことは、この場合出来ない。そううするには、彼はもう一度過去にもどらねばならないということになり、それは「取り返し」のつかないことだからという自責があるので、そんなことは不可能に思える。そこで鬱状態が喚起される。精神科医は「軽いうつ病ですね」とかなんとかいって、新薬のひとつも匙加減、処方するかも知れない。たぶんそうするだろう。何かクスリのひとつでも処方されたほうが、かれは安心する。ここにおいて、医師と患者という鬱病(双極性障害)の端緒がつけられる。
ほんとうは、元にもどすことは「不可能ではナイ」のだ。私たちは初期設定というものは絶対に変えられないものだと思い込みがちだが、初期設定というものは、思うほど力の強いものではナイ。初期設定の操作は、量子力学の「ラプラスの悪魔」に対する考え方において、すでにやぶられているものだ。ニュートン力学においては初期状態は位置pと速度v(あるいは運動量p)において決まる。これは軌道を描くことになる。この軌道を描く平面を「相空間」という。初期位置を点pとすると速度vと距離qの関数は方程式を持つことになるが、初期設定において生じている事象を軌道上の点に求めるのではなく、「ある領域」として可能性の範囲を拡げてしまうのだ。コトバをかえていえば、事象を確率のひとつとして考えれば、結果はひとつではなく、出てしまった結果をも、この確率の不安定さの力を活用して、破壊してしまうのだ。これは「クヨクヨ」や「後くされ」ではナイというものにしてしまうのだ。演劇もまたこれを可能にスル。

黄昏への帰還⑦-後くされ、先に立たず-

私たちは、関わり了解する世界を、内界(身体内部の精神世界)外界(身体)環界(身体の置かれた環境)とカテゴライズしてきたが、このあたりで、演劇の身体拡張(舞台)とあわせみて、もう一つ、世界が存在するのではないかと思い当たっている。つまり、外界と環界のあいだにそれは位置するもので、演劇の身体拡張としての舞台と同じものが、日常にも存在するということだ。それはたとえば自室を想定すれば、狭義のものとしては考えやすい。これは脳科学での分野に入るのだが、「脳はその環境を自身の脳に合わせてつくりかえる」といったものだ。これはカスタマイズと称されるもので、パーソナルな周囲の環境整備のようなものだ。キチンと整理整頓されていないと気がすまないひともあれば、散らかってきるほうが気楽でイイというひともいる。私などは、自身の仕事がしやすいように程よく整頓され散らかっている仕事場に日がな一日いることになる。
「きみのところにいってイイ」と男がおねだりするときは、必ず「きみを抱きたい」というときなのだが、もっと卑近にいえば、男の下半身に変化が生じているときなのだが、女性はこれを「いま部屋が汚い」てなふうに拒絶する。では、整理整頓、きれいならば許すのかというとけしてそうではない。これは「抱かれたくナイ」ということを直截(ちょくせつと読む。接点の密着度が強いときはこちらを用いる)いっているのではナイ。また、ほんとうに部屋が汚いかどうかは問題ではなく、自分の部屋でそのような営為が成されるのを嫌っているのだ。何故なんだろう。知らん。そういう心理学的なものにはあまり私は興味をもったことがナイからだ。
「じゃあ、ボクんとこ来る」で、行く女性もいるだろうが、そういう関係は長続きしないと思っていたほうがイイ。これは男も女も両方にいえることだ。問題は要するに俗っぽくいえば「後くされ」なのだ。私もそうだが(私の場合は極端にそういう傾向があるらしいが)誰だって「後くされ」はイヤなのだ。ではこの「後くされ」というのは何なのだろうか。「いま-ここに-わたしは-いる」という存在感覚が、突然この「後くされ」のようにいびつに感じられることはどんなひとも経験する。そのとき、そのひとは、心的に現在-未来をかんがえているのだが、この現在が、あたかも、過去の存在として識知されてしまうのだ。つまり、自身は現在に在るのだが、心的な情況が彼を過去に引っ張るのだ。
演劇でいうと、演技者には時間の矢があって、ともかく芝居を進行させていかねばならないのだが、たったいまの演技の失敗(というほどでもなく、出来不出来)がつきまとって次のせりふやらactionにスムーズに移行出来ないことはしばしばあることだ。これは居心地の悪いものだ。居心地が悪いですむならばまだイイ。これをふだんとチガウ範疇でかんがえると自身の存在の外界は現在であるのに、環界や、その中間の近界(と、今後はそう称する)が過去(追憶)の中に在るので、「身の置き所」が奪われてしまう、という事象に捕捉されているということになる。この程度の事象はまだ異常とはいわない。異常になるのは、この状態そのものが、払拭出来ないところまできたときだ。これはたとえ、その居場所が何処であろうが(部屋を出ようが出まいが)まとわりついて来るようになる。たとえ、如何様な追憶の場所と無関係な場所に移行しようと、その場所のなんらかのものが、「後くされ」のなんらかと、むすびついて妄想される。たとえば、カラオケに逃げても、その歌の一節、画像の中の何か、マイクのカタチにいたるまで、結びつけようとすればなんだってひとは想像力でこれを結びつけてしまうだが、それが、ある強い意思のようなものでおこなわれる。身も蓋もなくいってしまえば、鬱病の起因は自身の「後くされ」の拡張にしか過ぎない。

2013年4月10日 (水)

黄昏への帰還⑥-ココロはつぶやきになるだろう-

演技者(役者)に対してお茶の間の(そのような間があるかどうかは別にして)庶民がいうことのひとつ、あるいは感心することのひとつに「よくあんな多くのせりふが覚えられるねえ」がある。演技者のせりふというのは、演劇舞台とどんな関係を持っているのだろうか。まず、演技者はせりふを「記憶」している。これはマチガイないことなのだ。何故ならせりふというのは「決められたコトバ」なのだから。ところが、2時間程度の舞台を務めるときに、自らの登場シーンで自らの役のせりふをいうときに、もうひとつ記憶していなければならないものがある。いわずと知れた相手役のせりふだ。相手役がどんなせりふを語るのかを記憶していないと、いつどこで合いの手を入れたり、あるいは頷くやら首をひねるやら、ため息をつくやらの演技を入れることは決められない。観客席の観客には、そのようなことは自然に、とっさに、即興、アドリブのように挿入されていると思って舞台を観がちだが、(そうしてそういう役者も中にはいるのだが・・・困った役者ということを私はいっているんだぜ)もちろん、それらも決められている。(およそ即興的にすればいいところは、即興でと決められている)。ときどき、相手役のせりふが何処で終わったのか記憶がおぼろげになったり、即興的やっつけの演技などしていると、相手役のせりふが終わっていないのに自身のせりふを語りだして、アトからこんがらがってくることがある。舞台が不成功に終わるというほどではナイにせよ、相手役の演技者とは、あまりイイ関係にはならない。ほんとうは、優れた演技者は相手役のせりふを聞いたときに、自身のせりふを記憶から引き戻す。自身のせりふ(演技)を自身の役(表現的自己)へのベクトルだとすれば、相手役というのはもうひとつの対他的な表現的自己(コヒーレンス)だから、状態ベクトルはこの統合によるコヒーレントということになる。このような場においては、演技者は自身のせりふや演技というものを、相手役との時間的な連なり(アナログ)として記憶しているというよりは、空間的(デジタル)なものとして記憶している。もう少しいうと、ほんらい、せりふのやりという時間的(アナログ)な度合いであったはずのものは、空間的(デジタル)な度合いとして変容させられている。ここでは、相手役のせりふは外からのものでありながら、空間化されている分だけは演技者自身の「内発語」となっている。
この「内発」されるコトバ、これを「幻聴」として聞くことになると、統合失調症の症例になる。私たちは、「頭の上で鐘が鳴ったり」空耳のように無意識のうちに何かある歌のフレーズを「頭の中で聞く」ことがある。これを「内発語」というふうに名づければ、いわゆる「ココロの中のつぶやき」などはすべてこの内発語になる。これが病的になるのは、この内発のコトバをあたかも外からのコトバとしてしか了解出来なくなる、あるいはそういう関係に追い込まれたときだ。
演技者が、舞台にあるときそその<身体>は、環界にまで拡張される。つまり、舞台すべてが、演技者の<身体>として識知される。だから、そこからの声、コトバは、演技者には、表現的自己の拡張として関係づけられる。これは少しも病的なことではナイ。異常なことでもナイ。だが、日常において、この領域を広く持っているひとは、常軌を逸していたり、尋常ではナイひととして、扱われることが多い。少なくとも、精神科医よりもその領域が広い患者はえてして精神科医からは、医療対象となるきらいがある。これもまた、疾病の生成というしかナイ。

2013年4月 7日 (日)

黄昏への帰還⑤-頓狂だよ、おっ母さん-

いっとき「自己表現」というコトバが流行った時期があった。「演劇は自己表現です」などということがまことしやかに、あちこちでいわれたものだ。(いまだって、つまんねえワークショップでは、虚仮威しか呪文のように声高にいわれているかも知れない)よくよくかんがえればこの「自己表現」というコトバは重複したコトバなのだ。何故なら、そこに在るというだけで「自己」というのはすでに「表現」されたものだからだ。自身から他者をみているのと同様に、他者から自身がみられているときも、そういう意識をもって私たちは向き合っている。即自的対自的にしても「自己」は自己に対して表現している。この常態は、原生的疎外の状態をいっている。しかし、演劇の上で表現を強いてそういいたいのなら「表現的自己」という持ってまわったいいまわしをする他はナイ。この「表現的自己」というのは演劇においては「役」のことだ。演劇は「自己」を「表現」する場ではナイ。表現されるのは役だ。演技者たるは「役」を表現する自己だ。この、ある「役」を表現しているのが「自己」だということは、いいかたをかえれば原生的疎外と純粋疎外との錯合ということになる。
さて、ひとは日常でも歌う。極端に例示したほうがワカリイイと思うから、そうするが、古(いにしえ)の人々はよく歌を詠んだ。「読んだ」のではなく「詠む」というのは詩歌短歌を創ることをいう。そうして吟詠というコトバがあるように、それには節回しさへつけられる。歌を吟じる。日常に会話、談話、対話するのに歌を用いたのだ。万葉集、古今和歌集、百人一首、これらは<非日常>の営為ではナイ。日常の「表現」なのだ。
ところで、いま、歌のごとくにしか相手とコミュニケーションがとれないひとがあるとしよう。大きなひとを観て、「あなたって山ね」「あなたは雪男」「あなたは家の庭」という。抱っこして欲しいのを、「大きな山さん、登りたい」と、いう。これはアスペルガー症候群などと隔壁される。うまく相手とcommunicationがとれないひとのことをそういう障害で呼ぶらしい。アスペルガーというのは、こういうことをいいだした精神科医(精神病理学者)らしいが、私はこのひとこそその手のひとではないかと揶揄したことがある。ともあれ、精神病理学者というのは、精神病理とやらを重箱の隅をつつくように探す名人のことをいう。と、これも揶揄だけど。
ある女性歌手が結婚した。結婚相手とは出逢ってすぐの一目惚れというもので、その歌手がいうのには「そのひとと出逢ったとき、頭の上でほんとうに鐘が鳴ったの」。笑い話にしかならない。ある女優が「私、お風呂でよく妖精を観るんです」と発言した。天然ボケ(もの)と称される部類に属することになった。しかし、私は前者の場合はほんとうに鐘の音が聞こえたのだと信じて疑わない。後者もまた観たにチガイナイ。これは彼女たちの歌だと思う。どちらもそのまま歌詞になるじゃないか。抑揚の拡張はメロディとリズムになるではないか。私は、こういう話を耳にするとき、その人間を信じないどころか、普段の厭世や人間不信もどこへやら、人間、ひとというものを信じたくなる。
では、このような「歌」は、ひとの心的現象の奈辺から生じるのだろうか。<身体>と環界においての関係と了解において、その時間性と空間性において、あたかも幻聴や幻視のような異変はどこからやって来るのだろうか。頓狂なことをいうようだか、この頓狂な彼女たちの発言はそのまま頓狂で、頓狂の頓は頓智の頓だと考えてはいけないだろうか。そうしてもっと頓狂に答えれば、彼女たちの「歌」は「悲しみ-哀しみ」を超えてくるもののような気がしてならない。何故なら、もともと「歌」というものは悲哀を超えるために存在する純粋疎外=表現だからだ。視覚、聴覚、知覚、感覚、触覚、味覚、嗅覚などのさまざまな<身体>の精神現象としての心的現象が環界によってベクトル変容されていくとき、最後に残るものこそは「悲哀」であり、「悲哀」こそは、躁鬱の根底に横たわる黄昏といへはしないか。

2013年4月 6日 (土)

黄昏への帰還④-ひとはコトバを歌う-

演劇は<非日常>であって、けして<非現実>ではナイ。では日常に非するところは何かというと、起きることが舞台の上の出来事だからというのは瑣末なことに過ぎない。もっとも重要なところは、演劇の場合、語るコトバがせりふとしてあらかじめ決められていることだ。これは日常とはまったく逆、正反対の事象だ。日常の場合、私たちはあらかじめ決められたコトバを語っているのではナイ。独り言であれ、他者との会話であれ、予測は可能なものの「決められている」というのにはほど遠い。演劇によるせりふは「コトバをコトバする」ともいうことが出来る。この場合「コトバ」が意識下にあるとすれば、もちろん、決められている以上はそうなのだが、それを語るということは、コトバするということは、意識を意識するということに他ならない。しかし、意識を意識するということは日常でも在ることだ。だから<非現実>ではなく<非日常>なのだ。
ただ、演劇の場合、意識を意識するだけにとどまらず、意識を無意識化するという作業もおこなわれる。もちろんその作業は意識的におこなわれるのだが、演技というものはそういう技術でもある。演技者は花瓶を視ている。それが観ているになり、演技者の意識下に置かれると、花瓶は花瓶という単なる物質的対象から変容を遂げる。もし花瓶が恋人になってしまったのなら、それは演技者の想像力における演技の力であって、演技者は花瓶を抱いてダンスを踊ることも可能だ。そのとき演技者は原生的疎外から純粋疎外へと離陸している。しかし、いくらなんでも花瓶の触覚を人肌に感じることは不可能に近い。このとき演技者はそれ(花瓶)を恋人とみたててはいるものの、花瓶だということはいささかも疑っていない。するとここでは「花瓶を恋人のように扱っている」という表現が演技者によって演技されていることになる。これは映画において、CGが用いられ、花瓶が美しい女性に姿を変えるというシーンであっても同じだ。この領域においては、演技者はまったく正常に演技者として演技をしているに過ぎない。しかし、ここで「花瓶を恋人のように扱っている」という事象を述語的にとらえるとすると、何故、花瓶を恋人のように扱うようになったのかという、主語が必要になる。この主語と述語の関係は、日常でも起こりうることだ。対象に対するある特殊な了解さへあれば、ひとはそういう関係を花瓶にすら持つことが出来る。その花瓶は恋人からのギフトだったから、母親の形見だったから、骨董品として優れたものだったから、と、幾つでも主語を捜し出すことは可能だ。では何故、ひとはそのような純粋疎外=表現が可能なのか。それは単にガラス製品としての花瓶に対して状態ベクトルをつくり、ベクトル変容させることが出来る存在が「ひと」だからだ。これをハイデガーふうにいえば、ひとの存在は「現存在」だからだということになる。(現存在の定義はややこしいが、いわんとしているのは、-存在しながら、存在を了解することが出来、自らの存在によって存在そのものを問題に出来る存在-てなことになる)。この古典哲学に現代化学の解釈を足し算すれば、ひとはそれ自体コヒーレンス(自己生成)な存在であり、コヒーレントな状態ベクトルによるベクトル変容(波の重ね合わせによる干渉における生成)で、ガラス製の花瓶にさらなる「深み」を与えているということだ。およそ想像力とは、この「深み」や「奥行き」という空間化度と、時間化度の関わりをいう。たとえば、演技者がそこ(舞台)で歌ったとする。これは時間性としてとらえられがちだが、あきらかに空間性による、せりふのベクトル変容だ。何故なら、歌声というものは「波動」だからだ。波は空間を振動して伝わるものだ。とすると、聴覚は空間性を時間化してとらえることが出来るといわねばならない。この事象(情報)は現象(表現)としては、まかり間違うと「異常」や「病的」として捉えられかねない。何故なら、ひとはふつう日常会話においては「歌ったりしない」からだ。だが、日常会話でもひとは「コトバを歌う」のだ。

黄昏への帰還③-花瓶は踊る-

舞台空間というものがどういうものかということについては、前述した。いまここでは単純にある小劇場に設えられたステージを想定する。本番ではナイので観客はいない。舞台美術もまだ中途半端なままだ。夜には仕込みが完了して、明日はリハーサルとゲネプロにあてられるだろう。(ゲネプロというのは本来は一部マスコミ関係者、写真撮影者、本番に来られない関係者を入場させての本番どおり衣装をつけての通しをいう。単なる通し稽古はランスルー、リハーサルは場当たりを中心に最初から最後までの稽古、だが、劇団、公演形態によって使い方はさまざまだ)。
このとき、演技者は何なのだろう。立て掛けられた人形ではナイ。演技者は<身体>としてその舞台(世界)に立っている。この世界(舞台)を演技者の環境世界(略して環界)と称する。いま演技者は<身体>として環界に身を置いている。演技者は自身の<身体>としても世界を持っている。ココロというものだ。つまり世界が二つあるということは、矛盾と相剋を演技者に強いる。そこで、演技者には心的現象が生じる。心的現象とは、演技者と環界における関係と了解から発生してくる演技者の <身体> の「表現」といえる。難しくいうと個体の幻想性だが、私たちはこれを「表現」として扱う。すると、「表現=疎外」という等式から、演技者はそこに在るだけで疎外を受けているということになる。これを「原生的疎外」と、吉本さんの『心的現象論』に倣って称することにする。
舞台には、小道具(置き道具)に用いられるガラス製の花瓶がある。演技者はその花瓶を視る。最初は花瓶は演技者の観る単なる対象でしかナイ。次にこれを凝視していく。やがて視るは観る(観察)となり、その大きさや凸凹や曲線や色合いなどとなって演技者のほうにもどって来る。これは演技者の知覚作用だが、それをさらに深いものにしていくと、演技者自らがimageでつくりあげた演技者のココロの「表現」という構造の変化を起こす。この「表現」も「同じく「表現=疎外」だから、これも吉本さんの『心的現象論』に倣って原生的疎外に対する「純粋疎外」と称することにする。花瓶は演技者の中で、単なる花瓶という対象から位相を変えている。演技者のimageでは、その花瓶は演目におけるどの場でどう使われるのかが、浮かんでくる。演技者はそこから自身の演技をさまざまに連想することが出来る。ここに原生的疎外と純粋疎外は錯綜し統合する。これは量子力学でいうならば、状態ベクトル(波の重なり、ベクトルの変容)として、演技者と花瓶が在ることを意味する。演技者はそのようにして、花瓶と関係し、花瓶を了解している。つまり演技者の心的現象とは、そのことをいう。
これは双極性障害を持つものも、そうでナイものも同じことだ。ここで、花瓶がまるで踊り出しそうだとか、割れて砕けてしまうとか、何か花が活けられているとか、どのようなimageを持っても、そのものが異常だとか、病的だとかと、いうことは出来ない。演技者に限っていえば、ここで異常というのには、そこが舞台で自身が演技者だという対応が喪失しないまま、どうしても花瓶が踊り出す気がしてならないといった妄想念慮にとらわれた場合だし、病的というのは、すでにそこが舞台であり、自身が演技者であるということを喪失してしまって、ただ花瓶が踊り出すことだけを懸念している様相をいうことになる。しかし、imageは想像力(imagination)だ。演技者が自身の演技のために、その花瓶をどう扱うかを想像していることは、異常でも病的でもナイ。そうして、ここからはタイセツなところと思われるが、その演技によって自身が楽しくなるか悲しくなるか、明るくなるか陰鬱になるか、は、その度合いがどうであれ、演技者の演技力と演技者としての資質の問題であって、双極性障害の範疇としては取り扱えない。ここで想像力の貧困な精神科医が、想像力のたくましい患者を診たとき、必ず、自身を基点とした羅針盤で線引きをし、データとガイドラインという数値と指針とから判断して、投薬の準備をするならば、患者という船舶はあらぬ方向に進まないとも限らない。そこで、疾病が誕生してしまう。患者の「これは何のクスリで、私は何か病気で、どんな症状なのでしょうか」について、精神科医が、そこが舞台空間という環界をもって患者の固有の <身体> との位相構造が存在していることを、考慮することを忘却しているならば彼はこういうだろう。「花瓶が踊り出すと楽しいなんて、あなた、ちょっと躁状態ですよ」

黄昏への帰還②-初々しき一所懸命の看護師さんの素っぴん-

私は精神医療(医学)に対しては何の学問もナイ。しかし、常識的な教養程度のものは普遍的には所有しているつもりだ。ここでいう常識的教養というのは精神医学(医療)においてではなく、一般生活者としてだ。もうひとつ、私はおよそ40年、演劇という未知の不可思議な表現営為を歩んできた。イイカゲンさ、乱調に錯綜は芸術に必要なものかも知れない。しかしそれはあくまで、創作営為、表現行為についての上の話で(くだいていえば舞台の上での話で)「演劇論」としては乱調やら破綻やら錯綜やら、果ては輸入学問の丸写しやらは、私にとって単に胡散臭いものでしかなかった。私は私たちにとっての、真っ当な「演劇論」を求めた。それは『恋愛的演劇論』として、未完成ながらも完成をみた。そこで扱ったさまざまな方便、方法論は、演繹←→帰納としてけっこう融通の利くものだということもワカッタ。私がこのブログで、今度やってみたいことは、精神医学以外の双極性障害の治療法を示すことではナイ。双極性障害の本質を私たちなりに明確にし、それと対峙していくにはどうするのが正しいのかを試行錯誤していこうというものだ。よって、その方法論として、私たちは「演劇論」を用いるというアクロバットな装備を整える。
私たちは、それなりにここにひとつの世界として「演劇」を考える。それは精神科医と患者という代わりに演出家と演技者となったり、観客と演技者となったり、演技者と舞台空間や舞台時間となったりする。その写像は、非現実的(虚構)のようにみうけられるかも知れないし、誤解を招く危険があるかも知れない。しかし、こう考えてはどうだろう。
「この世界は演劇だ」
この観点に立てば、さまざまな具体的(演繹)命題から、双極性障害という抽象的命題に帰納していけるはずだ。それにそのほうが、なんやかんやと精神医学用語を並び立て臨床医学の数値や統計を開陳されるよりもオモシロイではないか。オモシロクやろうよ。何故なら私たちはもう、あの医師たちの仏頂面はみたくないのだ。三流役者のような下手くそな笑顔の演技は映像取材の中だけにしてもらいたい。私たちはまだ初々しい看護師さんたちの一所懸命の素っぴんが観たいのだ。
「ちょっと気分がスッキリしないんです」「うーん、それは心因性のものではないですかねえ」「心因性のものとは」「気分がスッキリしないようなことです」かくなる自同律、循環論はイヤというほど耳にしてきた。「鬱病になると脳内物質のセロトニンの数値に変化が起こるんです」「セロトニンの数値に変化が起こるとどうなるんですか」「鬱病になることが多いんです」「鬱病だからセロトニンの数値がおかしいのか、セロトニンの数値がおかしいから鬱病なのかどっちなんです」「現在の精神医学ではまだワカッテません」鶏が先か玉子が先か。「このひともう、手に負えないので、ここに、お医者さまのところに連れてきました」「あなた方の手に負えないものを連れてこられてもねえ」不眠症は眠れば治る。私たちの焦燥はつのる。「イライラしますか」「イライラかなあ」「イライラするでしょう」「イライラもしますね」「イライラしてるんですね」誘導尋問か別役実さんの不条理劇だ。こういうことはもうたくさんなのだ辟易なのだ。
私たちはいま、舞台という世界に立ったひとりの演技者を想定する。ここから彼の「心的現象」を考察していきながら、黄昏に帰還する。

2013年4月 5日 (金)

黄昏への帰還(双極性障害の本質へ)①

タイトルは変わったが、エビリファイの拘泥から脱して、私たちはこれから双極性障害の本質へと向かうことにしたい。ここで、私たちは、双極性障害の本質をその極限値まで追い詰めてみたいと思う。素朴なコトバでいいきるなら、双極性障害の「正体」を、ミステリふうにいうならその真犯人を指名したいというのが、本願だ。
最初に述べておかなければいけない幾つかの命題がある。
①双極性障害は治癒出来ない---何故ならそれは疾病ではナイから。
②従って演繹すれば、精神科治療はすべてとはいわないが、第一義的には無効になる。
③補足すれば、精神科治療は第二義的にはまだ有効性を持つ。
④双極性障害が治癒不可能だというのは、医療の不完全性ではなく、本質的なことだ。
⑤治癒出来ないということは、けして敗北を意味しない。
⑥それが疾病でナイのなら、他に対峙する方法は存在する。
⑦対峙するとは、「うまくやっていく」という程度のことをいう。
ともかくも、双極性障害に対する精神医療は、完璧なほどにダメだということは、我が身を以て充分に経験、学習、理解、納得した。極端なことをいえば、というか、訴訟を虞れずにいえば、双極性障害は、薬剤メーカーと精神科医が君臨して創り出した「情況」にしか過ぎない。免疫抗体が、外からの侵入を防ぐためにクシャミさせることを、クシャミを止めるということで医療行為としているのと同じだ。私はここで、最初の医師Mさんの、慎重で十全な設えからの治療に、敬服畏敬する。その結果を端的にいえば「身体的疾病はまったくみられない」だ。とともに彼の述べた「この病気はあなたがあなたの人生において創った病気です」というコトバも耳から離れない。私たちはここにもどろうと思う。ここに帰還して、漆黒の闇から黄昏へと問題を立て直そうと思う。
この連載は、都度、掲載するつもりでいる。

エビリファイへの考察・終

ここにおいて、前章までで可能なことは、医師と患者との関係(もう少し具体性をもたせれば、医師の匙加減との関係)をかんがえる思考方法としては、現象学や弁証法、さらには数学物理学化学など応用(形式論理はそれ自体が独立しているのではなく、どの思考法においても用いられる)が考えられるが、いつものごとく数学的応用をいうならば、精神科医と患者、演出者と演技者という関係を関数として考えればイイというのが、最も理解しやすいのではないかということだ。何故なら関数には主従(支配と服従)がナイ。主体が常に患者にあり、演技者にあるのとすれば、微分方程式の微分係数の値の比の変化はそのまま患者、演技者の表現の変容であって、精神科医は「対象」になる。これはふつう考えられている主従の立場があたかも逆転したかにみえる。みえるだけではなく、本来、ほんとうはそうしなければこの疾病に対する真っ当な対峙は出来ないように私には思える。つまり、精神科医、演出者に対する患者、演技者からの異和は、そこから導いていけるのではないか。と、いうことだ。
私たちは、ここまで概ね双極性障害に対して、私固有の具体例と、演劇現場に対応させる方法論を以て、その情況をエビリファイという媒介を借りながら展開してきた。今後はそれを発展したカタチで、私固有の問題としてまた普遍的なこの疾病に対する治療の異議申し立てと考察を、素人ではあるが、私自身の演劇論を武器にして、悪戦苦闘、粉骨砕身で続けていくつもりだ。目の黒いうちは、ネ。

2013年4月 2日 (火)

エビリファイへの考察⑮

ところで、精神科医と患者との両者をもう一つの位相から観ることも可能だ。例のごとく表現の形態を演劇に置換すると「一人芝居」の演出者と演技者だというふうにすることも出来る。
あるいはこの対峙の仕方のほうが、精神科医と患者とのお見合いにおいては、相応かも知れない。ただし、のっけにことわっておかねばならないのは、演出者というのは即自的に表現者にはなれない。演技者という表現者をとおしてしか、表現というものが出来ない。よって、精神科医も同等の位置においた位相になる。これはどういうことかというと、精神科医は向かい合う患者との交換価値形態において、相対的価値形態か等価形態か、何れかの一方に在ることしか出来ないということだ。つまり、精神科医はどうじに患者にはなれないということを意味している。
演技者が舞台に立つ。このとき、それ自体で演技者は原生的疎外の中に在る。演技者が舞台で演技表現を開始する。このとき、演技者は環境世界からの疎外(純粋疎外)の中にある。これは先述したことだ。この場合、「立つ」ということ自体が表現であるならば(まさにそうなのだろうけど)、演技者は舞台に在る瞬間、単なる生命体(生物)としての身体性への疎外を感受しているといいなおしてもイイ。いくら異化効果とやらを繰り出しても、イカにもタコにもなれない。演技者はひとのカタチをした身体という自然なのだ。そうしてその自然は環境自然からの異和としか存在できないという本質をもっている。
そのとき、演出者(精神科医)のいる「場」をどう設定しておけばいいのだろうか。これを観客席、あるいは観客視線とするならば、その「場」はある「境界」にあるといってイイ。 これをコトバを換えていえば、精神科医の治療は、常に患者との境界からのものだということが出来る。これは強調出来るものだ。精神科医がたとえ玉座に座っていようとも患者は奴隷ではなく、それが判事席にあろうとも患者は被疑者でも罪人でもナイということだ。むろん、精神科医(演出者)は患者(演技者)に向けて、何か判断をくださねばならない。ここにおけるチガイは、精神科医はその基準や根拠に心因性、内因性、外因性をいい、演出者はそれをいわないことだ。考えてもみるがイイ、演出者が演技者の演技に対して、「きみのその表情は心因性からきているのではなく、外因性のものだね」などという阿呆がいるワケが(ナイとはいえないのがこの業界だけど)。
問題はこの「境界」にあると思われる。「境界」から観ると、異常や病的な部分(すなわっち、演技がうまくいっていない部分)は、あるだけある。しかし、この「境界」を演出者は極限まで演技者に近づけることが出来るように(演技者に到達することは本質的に不可能だが)、精神科医は極限まで患者に接近出来る(する)だろうか。私には、現行精神医療では、そんなことはあり得ないとしか思えない。もし、精神科医が演出者のように患者の極限に最接近したら、精神科医の正常値は狂ってしまう。正常でなくなった精神科医が正常な診断をくだせるワケがナイ。これは矛盾だ。そこで、考えられるのは、精神科医にとっての医療法、治療は、一旦極限に最接近するが、そこから境界へともどって、自らの接近値を客観(的)と精神科医自らが判じる方法でデータ化し、一般的なガイドラインに照らし合わせて治療手段(投薬の匙加減)を決める、と、これだけのことになる。あるいは、この繰り返し(反復)においての方針転換が含まれるとえば、そうなるだろう。

2013年4月 1日 (月)

エビリファイへの考察⑭

私たちはここで、案外ぞんざいに「関係」「了解」というコトバを使ってきたが、これは整理しておくにこしたことはない。また「時間性」や「空間性」もそれと同じように、ついでに扱うと-理解が納得-してくれると思える。
たとえば私たち演劇もんは「舞台空間」というコトバを仕事の場合、日常的によく用いるのだが(「舞台空間において」とか「舞台空間としては」とか「舞台空間では」とか)、では「舞台空間とは何ですか」という素朴な疑問に答えられるものは意外に少ない。たいていのものは、それは劇場の舞台の上の現場、程度にしか理解していない。一般の人々もそうにチガイナイ。では、それだと「舞台」というだけでは何故イケナイのか。「舞台」というのが、「今日の舞台は」というふうに、その日の演目をいう場合が多いせいかも知れないが、つまり演じられたものと同義で使われることが多いからなのかも知れないが、たとえそうだとしても、というか、そうであれば、「舞台」と「舞台空間」は別に取り上げて考えなければならない。
端的にいってしまえば、「舞台空間」というのは劇場と称される機能の一部である場所、舞台としての場所のことをいうのではナイ。これはまったくの逆で、むしろ「何かが演じられる(た)-表現される(た)-空間(場所)ならば、そこを[舞台]と称する」という定義のほうが正しい。いまマンションの一部屋で、あるいは公園で、あるいは街頭、駅前で、お芝居やら舞踏やらのパフォーマンスが演じられたとしたら、そこは「舞台空間」なのだ。
唯物論においては「時間」は「物質」に附属している。「物質」という空間物がなければ時間というものはナイということになっている。「ときの流れ」という先験的にカテゴライズされたものにしても同じで、これはニュートン力学にアインシュタインの特殊相対性理論が登場するまでは、絶対時間として物理的に固持されてきた。しかし、物質が固有の(それぞれの)時間を有するものとして識知されるようになると、いわば、あんたの時間と私の時間はチガウといういい方が、物理的にもいえるようになった。その伝でいうと、「舞台空間」における「時間性」というものは「非日常的」なものではないかといえそうだ。「非日常的」というのは、日常において関係していることや了解していることがチガウ形態で表されるということに他ならない。私たちは「舞台空間」おいては、日常とはチガウ「関係」を持ち、それを「了解」するのだが、この場合の「関係」は「時間性」と密接につながり、「了解」は「空間性」と密接につながる。日常でも同じことがいえるのだが、「自己関係づける」ものはその時間性だし、「自己了解づける」ものはその空間性なのだ。
具体的に演技者の心的な動向を追っていけば、まず演技者が(稽古だろうが、本番だろうがどちらでもイイ)舞台に足を踏み入れた場合、舞台空間の空間性と時間性を身体で引き受けることになる。この場合、演技者は内界と外界(身体)という(自己←→自己)に対して環境世界としての「舞台空間」を関係づけ了解する。[(身体)という(自己←→自己)]←→[舞台空間]。このとき、演技者の身体(性)は外界(身体)から舞台空間という環境世界すべてに拡張される(というか、ほんとうは、そうあらねばならないのだが、そう出来ない下手なのもなかには多く在るからなあ)。よって、その舞台空間の空間性と時間性は、演技者の脳(image)によって、カスタマイズされる。その方法は演劇においてはある特殊性を持っている。それは、本番に向けての未来へのimageと、これまで稽古してきた過去からの呼び起こしによるまったく逆方向のimageの結びつけだ。
ところで、この空間性(了解)と時間性(関係づけ)が演劇ではなく(非日常ではなく)、日常において生じてしまうとどうなるのか。私たちはそこにこそ「異常」と「病的」なものをみるにチガイナイ。演劇のような非日常の舞台空間においては鍛練と訓練において、それらを掌中に置くことは出来る。しかし、日常はそうはいかない。疎外(思い通りにならない)は、「異常」や「病的」な[表現]として発現してくる。

エビリファイへの考察⑬

フッサール現象学とハイデッガーの実存主義哲学から現存在分析という精神医学を拓いたビンスワンガーは、著作『うつ病と躁病』において、うつ病の根底にある「不安」とは、「倫理性」なのか「自然性」なのかと問い、それは「倫理」ではなく「自然過程」であり、自然としての人間的過程が崩壊(解体)するときの解体の仕方のひとつだと結論している。もちろん、演劇を志向してきたものにとっては、この結論はにわかに信じられるものではナイ。
ビンスワンガーがいわんとしている現存在とは、[私は-身体として-いま-ここに-ある]というふうに端的にだが述べることが出来る。これは演劇もんにとってはかっこうの餌として飛びつきたくなるシロモノだ。この「私」を演技者としてもいいし、「身体として」を演技者の身体として取り上げることも出来るからだ。「いま」は身体の持っている(置かれている)時間的なsituationだし、「ここに」は空間的なsituation、すなわち、「舞台」だ。
ビンスワンガーの診たてでいうと、うつ病者は自身の存在(現存在)を「たしかに在るのに在るという感覚、感触、そういう気がしない」と感じる。これは、私自身が経験したエビリファイの副作用による主観のすっ飛びと酷似している。これについての矛盾は、既に、私自身指摘してある。繰り返して簡単にいえば「ここにナイものが[たしかに在るのに在るという感覚、感触、そういう気がしない]」というのは矛盾でしかナイ。
観点を演劇に滑らす。いうまでもなく、演技者は創られたという意味においては「不[自然]」な時間と空間の場(舞台)に置かれている。そうすると、それは現実ではなく虚構の時空なのだから、同義的には取り扱えないのではないかという反問にさらされる。これは一見真っ当そうにみえて、実はそうではナイ。この反問を根拠づけるのには、現実とは何か、虚構とは何かという問いに答えなければならない。それについては、『恋愛的演劇論』(今秋発刊)の中で述べてあるので、詳しくは書かないが、「現実それ自体」や「虚構それ自体」は表現においては存在しない。
ともあれ、[私は-身体として-いま-ここに-ある]という現存在の在り方を演技者の舞台においてのそれと比較してみても、べつだん齟齬は生じないと私は考えている。何故なら、演技者はその次元(舞台)を自己の身体に対する関係と了解としているし、、自己と環境に対する関係と了解の位相に置いている。つまり、人間は自然であれ、舞台の演技者としての「不[自然]」であれ、[私は-身体として-いま-ここに-ある]という識知には達することが出来るし、そこにおいて⑫で述べたような、「異常」と「病的」な類似体験をしてしまうからだ。
演技者にとっては、まず、[身体(役)として-いま-ここに-ある]ことがタイセツなことで、これが出来ない様相を「足が地についていない」「舞台における立ち方が悪い」という。たとえ演技者の存在する場が江戸時代というsituationであっても、演技者は劇場の非常口の場所や、客の入り具合はちゃんと観ているものだ。また、観客に観られているという意識は所持している。それら織りまぜてが演技者の在りようだ。そのとき、演技者が演技表現の上で異和感を持つのは、表現自体が疎外に該るからに他ならない。このときの疎外は、ただ舞台にあるというだけでやって来るものと、舞台において表現する際にやって来るものの二種類がある。いうまでもなく、前者は生命体(生物)が所有している原生的疎外(ただ、その存在自体において受ける疎外)に対応し(フロイトのいう無意識がそれに該る)。後者は純粋疎外(身体と現実的環境世界の双方から受ける疎外)に対応する。演技者は常に[身体(役)として-いま-ここに-ある]ことを主観と客観で識知するため、演技者の陥る不安を記せば「[身体(役)として-いま-ここに-ある]-ではナイ」となって、客観的に観ているはずの自身が主観でしか取り出せないという、日常とは逆の不安になる。それは舞台という「いま」「ここ」が「不[自然]」なのだから当然の逆立だ。これが表現における不安(疎外)ならば、[私は-身体として-いま-ここに-ある]に対する不安は「自然」への「自然に対する表現」への不安と称して差し支えない。「自然に対する表現」は、もちろん「自然現象」ではナイ。それは心的な働きかけであり、その作用としての「関係づけ」と「了解づけ」において心的現象といえる。

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