黄昏への帰還⑱-安定と平衡-
ブリゴジンの「散逸構造」というのを端的に表すと、囲碁を思い浮かべれば足りると思っている。囲碁は将棋とチガッテdigitalな対戦ゲームだ。将棋が常に三手先を読んでは修正していくのに比べて、囲碁も手を(手筋を)読むのだが、将棋と根本的にチガウのは、常に全局面と部分的局面を「観る」力が必要とされるところだ。全局面、つまり盤上全体を観ると、ただ黒白の石が置かれているに過ぎない。ところが、盤上では、ゆるやかに黒白の石がパランスを保っている(互角の)状態と、いましも角逐の戦闘が繰り広げられている、石の活殺の局面とがある。つまり平衡状態なる部分と、激しいゆらぎの部分があるということだ。「散逸構造」とは、宇宙もこのように在るとする考え方だ。ニュートン力学にひきもどすと、等速直線運動はある平衡系だが、加速度運動に入ったとたん、この平衡は破られる。これが囲碁の戦闘局面だ。もう一歩これを表現の在り方にもどすと、なんとはなくの生存に対して、極端な表現の局面が訪れたとき、平衡系がやぶられたとき、加速度運動に入ったとき、それが、他の質量からの要因としてのものであっても、重力が発生する。質量としてのものというのをコヒーレントなものと考えれば、加速度運動はコヒーレンスだ。等価原理において、この区別は出来ない。この重力を作用に対する反作用という概念に置き換えれば、作用である限りは、なんらかの運動(動き)が要因として存在しなければならない。それが外力なのか内力なのかも等価原理として考えられる。それが耐久力を超えたときに、躁鬱という状態が発生する。
私たちはその源の運動(動き)が何かを探してもイイが、囲碁の活殺戦闘の局面のように勝負のためだという単純な観方は出来そうにナイ。何故なら、私たちはそのような情況、状態を第三者的、客観的に眺望するのではなく、自身の在り方として体験してしまうからだ。盤上を眺めることはある程度において可能だとしても、私たちはそのとき盤上の非平衡局面として存在しているということだ。しょせんは自身のことなので、他者にはワカッテもらえないし、また、ゲーデルの不完全性定理のように自身のことは自身ではワカラナイ、という矛盾の中に在る。他者にも自身にもワカラナイ。あるいは <他者にも自身にもワカラナイ>だけがワカルというところに自身はある。こういう状態が、何の理由もナシに、一気になんらかの引き金(これも当人にはハッキリしない)でカタストロフ的にやって来る。ルネ・トムのカタストロフ理論は、演劇論や戯曲の塾のレクチャーでも取り入れている(ある程度は気休めなんだけどネ)。ここでは詳細は述べない。
精神科治療の方法論に話をもどすと、彼らのいう「安定した状態」というのが、一定の波動を継続させる状態をいうのか、ある平衡状態をつくり出す状態をいうのかにおいては、感触としては後者に近い。前者にしても、ではその「安定」している波動が、患者にとってイイのか良くないのかを判断する根拠(エビデンス)は何もナイ。そもそも「安定などしなくてイイ」し、「安定などしない」だろう、というところから、このブログは始まっている。要するにそういう自己に対してどこまでどんなふうに対峙していけるかということだけなのだ。
双極性障害(と、名前がつけられた躁鬱障害)は苦しい。辛い。しかし、自我の崩壊には至らない。これまた本質的に自我の崩壊は、双極性障害の場合には成立しない。自我が崩壊していれば、この疾病は起こらない。あくまで自我(自己)の識知の変容がこの疾病(だといわれる障害)の全貌だからだ。

