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2013年4月18日 (木)

黄昏への帰還⑮-幕間(まくあい)-

幾つか留意しておくことがある。瑣末なことからいうと、climax(前回のsubtitle)というのは「最高潮」という意味だ。最高潮がドラマなどの創作物では終盤に多いので、「ついにクライマックスを迎える」(この、「ついに」を漢字で書けば「終に」だ)、というふうに、ドラマの最後の部分と思い込んでいる人々も多いが、climaxはほんらい、そういう意味ではナイ。
次にたいていの苦笑、嘲笑を自虐的(被害者妄想的)に記せば、どこからともなく「おいおい、ついに腎虚にニュートン力学をまぜこぜしだしたぞ」という声を耳にすることが出来る。中医学に近代(古典)力学だから、これはとんでもないcategory error のようにみえるのも無理からぬことだ。しかし、もともと、ここには「演劇」の概念も加えてあった。私たちは、ケチくさいことはいわない。たとえばニューロンの仕組みだけでひとの意識や観念や表現、幻想、創意などを述べようなどと大脳皮質しない。(大脳皮質しないというコトバはもちろん揶揄の造語で、大脳皮質に私たちを閉じ込めたりしないということだ)。
次にお復習いをしておく。この『黄昏への帰還』の目的は、以下の命題(命題というのは課題ということではナイ。これまた何度もいうように主述のある文脈はこれを命題というのであって、だいたい「命」なんぞつけるから、なんだかシャカリキになるんだべ)を定義づけたり証明したり、考察したりするための試行錯誤だ。
①双極性障害は治癒出来ない---何故ならそれは疾病ではナイから。
②従って演繹すれば、精神科治療はすべてとはいわないが、第一義的には無効になる。
③補足すれば、精神科治療は第二義的にはまだ有効性を持つ。
④双極性障害が治癒不可能だというのは、医療の不完全性ではなく、本質的なことだ。
⑤治癒出来ないということは、けして敗北を意味しない。
⑥それが疾病でナイのなら、他に対峙する方法は存在する。
⑦対峙するとは、「うまくやっていく」という程度のことをいう。
私は私の演劇論(表現論)を駄築するにあたっても、数々の分野のそれぞれの考え方を演繹してきた。ここでも、その方法、方針は変わらない。
とはいえ、マチガッテも「ニューロンには加速度がある」などという逸脱だけは避けていく。「双極性障害とは日常(等速直線運動-慣性の法則)に、ある「加速度」が生じ、それが「重力」となり<身体>に負荷することによって生み出される心的現象だ」というとき、それらの用語は概念として使われているが、どれだけの加速度(単位)がどれだけの重力(単位)で、<身体>がどうなるかということをつらつら論じているのではナイ。前述した①~⑦までの命題においての総合的な「こうとちゃうんか」がいえればイイだけだ。治療の方法などはまったく私にはワカラナイ。ただ、私の固有性が私たちに共通する範囲で、普遍化出来れば足りる。
たいせつなこと、重要なことは、「クスリひとつ処方するのにも、それを判断決定した医師という<人格>が介在しているということ」であり、「患者はクスリと疾病の媒介などではけしてナイ」ということだ。病気の治療にあたるのは医師や薬剤師など医療関係者だが、宿痾の影響をもろに被っているのは、患者(私)それ自体だ。私の固有性が、私の宿痾の正体、本質に迫りたい、対峙したいというのは極めて<強い>好奇心と反抗心だ。
ここまでにおいて、なんとはなしに、ああっやっぱりそうなのかと思っていることをいってしまえば、この疾病に罹患したとき、私が最初に感じたこと「何だか急に重力のチガウ天体に放り込まれた気がした」という直観に、どうやらもどってきているいうことだ。もとより私の宿痾はそういう<身体的>異変から発現している。

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