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2013年3月22日 (金)

エビリファイへの考察④改訂

ところで、そもそも「副作用」というのはナンなのだ。もし主作用がその疾病を治癒して修復するものならば、そうではナイものという単純な規定が与えられる。ここで、副作用の欄に「ちょっとおかしくなる」と書かれていたらどうなるだろう。おかしいは「奇怪しい」のほうで「可笑しい」のほうではナイのは断るまでもナイが、たとえば、演出者が役者の演技に対して、「もうちょっと~おかしい~ほうがいいな」てな注文を付けたとする。これは主作用(基本的な演技)に対して副作用(それを崩した演技)を求めているのだと役者はたいてい理解する。では「ちょっと、おかしい」とはナンだ。これを私たちは日常で「病的」とか「異常」とかいう代わりに用いている。向精神薬の副作用が「ちょっとおかしくなる」とかかれている場合(すべての副作用を帰納すれば、これに尽きるのだが)、それが病的、もしくは異常として発現していることになる。
ひとは病気でなくとも「イライラする」ことは多々ある。私なんざ、今日の診察で副作用のことを話したら「イライラしますか」と質された。(たしかにその質問にイライラはしたが)。「イライラもそわそわも、落ち着きがないも、ふだんあるものですから、本来ならば~「妙に」~と加文して~みょうに、奇妙に、イライラしますか~と訊くのが正しいのでは」と、応じたら、ドクターは質問をやめてしまった。変なのは私か、ドクターか。
さてと、私の嫁は「あんたはちょっとおかしい」といわれることがあるそうだ。私もよくいわれるから、つまり、私たちは似たもの(どうし・夫婦)という感触になる。で、と、再度question、「ちょっとおかしい」とは何をして「おかしい」のか。「おかしくナイこと」との線引きの基準があるのだろうか。
ここで、先に「だいぶおかしい」が疾病だということになるということに留意しておく。これは治療を要する。疾病だもん。このときその疾病に対する治療のガイドラインが作成される。では、その線引きはというと、現在の医学は臨床医学だから、検査値の基準から割り出される。では、その検査値はどうやって決めるのか。人間は自然体だというところに還元し、そうであるならば、この程度の範囲内が正常値だという、ある「蓋然性」を基にしている。逆にいうなら「蓋然性」にしか過ぎない。だからたいていの病気疾病はこの蓋然性(つまり~~のはずだ)で決まる。
それでは「ちょっとおかしい」もそうだろうか。「ちょっとおかしい」は「異常」だろうか「病的」だろうか。そもそも、異常と病的の差異はナンナンダ、ナンマンダブ。単なる雰囲気のいい換えか。では、演出者が役者に「そこは異常というより病的なほうがいいな」とmissionしたら、役者はどうする。無論、どうにかする。なによりまず演出者にこういうだろう「あなたの考える異常と病的のチガイって何ですか」。
私たちはこういったものにエビデンス(根拠)を持っておきたいと思う。基準というよりも根拠だ。そこで、また始まったぞの誹りを覚悟で、ここでもニュートン力学を持ち出すことにする。
まず、私たちは何故、他者(対象)を「ちょっとおかしく」思うことが出来るのか。自分を(その正常さらしさ)を基準にしているから他ならない。その自分に備わっているものが、他者(対象)に対して余剰であるか、欠落、喪失してあるか、という了解を以て、他者(対象)を計測するところからこの作業は始まる。(多いか少ないか、だわな、簡単にいっちまえば)
ここでも微分を使う。それからある数列(これは極限でもイイ)。極限でいくんなら、つまり、自身と他者を無限のほうに近づく数列だと考えればイイ。ここで自身を無限遠点に置くとする。他者と自身が同一化しているところを無限近点とする。そうすると、自身の無限遠点と、他者と同一化している無限近点の中間には「余剰であるか、欠落、喪失してあるか」という点がみつかる。自身の無限遠点の近傍成分をdyとして、無限近点の中間の近傍成分をdxとして微分係数dy/dxが求められる。「ちょっとおかしい」というのは、この係数(比率)からの「印象」でしかナイということになる。

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