無料ブログはココログ
フォト

« エビリファイへの考察⑪ | トップページ | エビリファイへの考察⑫ »

2013年3月31日 (日)

観劇『罪と罰』(劇団うりんこ)の感想文

storyはよくわかりました。storyしかワカリマセンでした。
あの長編小説を1時間50分の舞台にした山崎清介さんの才力には脱帽です。
シェイクスピアなら、ありゃあ、storyを楽しむ演目ですから、それで良かったとおもわれます。しかし、不遜を承知でいうなら、ドストエフスキーの小説のお話は陳腐でオモシロイものではありません。
そんなことは、清介さんはたぶん百も承知だったとおもいます。ですから、あの位相と順序の構造の脚色は間違っていないはずです。お見事でした。(唯一の失点は、当時のロシアの情勢、庶民大衆の貧困な暮らしがみえにくかったことです)。
問題になってくるのは、演技です。
ラスコーリニコフは、中心点です。ほかの近傍の登場人物の演じ方を[加速度の重力を持った運動エネルギー]だとすると、ラスコーリニコフは[ポテンシャル(位置)の重力としてのエネルギー]ですから、演技表現も他と明確にエネルギーの質を分けなければいけません。これがなかったので、ラスコーリニコフは単なる坊ちゃんにしかみえませんでした。
これらは役づくりというものとも関係してくるとおもわれます。「役づくり」というものを重要視する演技形態について、私はあまり賛成しない輩です。
スタニスラフスキーは、おそらく、それ(役者が役に同化するのではなく、役に逃げ込むこと)を防ぐために「超課題」を提唱したのでしょうが、彼自身、それを論理的にいいきれていないなというのが、彼の著作『俳優修業』を読んでの感触でした。(もちろん、私が読みきれていないだけなんでしょうけど)。ブレヒトの役に対する批判的接し方(いわゆる異化)は弁証法云々などとは何の関係もナイ、自然過程の問題です。当時の弁証法はマルクス=レーニンの変形タイプですから、稚拙ながら一応弁証法を学んだものからみると、ブレヒトのそれは弁証法とはまったく縁のないインテリへの猫だましにしか過ぎません。
清介さんの演出には、役のステロタイプ化、prototype化を避けようとした形跡がありありとみえました。ここは演出者としての争闘だったとおもわれます。しかし、それは演出者が意図したほどうまくはいかなかったのではないかというのが、私の不埒な感想です。卑俗ないい方をすれば中途半端になってしまいました。
ラストシーンのclimaxで、ソーニャに諭されてラスコくんが、地面に接吻し、全ての登場人物に自身の罪を宣言するところ、あそこをネ、それぞれの登場人物に論戦をしかけて、ラスコくんの理論によって論破していくてなふうに変えてしまうと私はきっとオモシロガッタと勝手に思ってます。
やはり、演劇は情況の子です。「何故、ひとを殺してはいけないのか」という[現在]が突きつける問題に、一矢報いてもらいたかったというのが、無い物ねだりです。

« エビリファイへの考察⑪ | トップページ | エビリファイへの考察⑫ »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 観劇『罪と罰』(劇団うりんこ)の感想文:

« エビリファイへの考察⑪ | トップページ | エビリファイへの考察⑫ »