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2013年3月12日 (火)

労働と労働力

前回スタッフと演出者のことについて書いたので、これを固有に置き換えてみる。てなことをいうとなんのことになるが、要するに「あんたはどうなんだ」ということを難しくいっているに過ぎない。けれど、こういう難しくいわれていることにも慣れてもらわないと私のブログは読めない。物事をより簡単、共用、共通規範にして用いることだけがcommunicationではナイ。
「労働」と「労働力」はチガウのだ。私が欲しいのは後者のほうだ。もちろん同様に「演技」と「演技力」もチガウ。これは簡単に(いうつもりなんだけど)いえば、労働が価値を持ったものを労働力といい、演技が価値を持ったものを演技力という。
もっと簡単に例をいう。引越しをする、そうするとベテランの社員にアルバイトくんがついて来る。引越しだから物を運ぶ。冷蔵庫から置き時計、布団にパソコンまで。ベテランには労働力があるとしよう。すると、バイトくんがやってるのは労働だということになるとしよう。ベテランは冷蔵庫とパソコンの運び方がチガウことや、如何にして、それを運べばいいのかを身につけている。バイトくんは、まあ、適当に持ち運びますな。このチガイだ。
これを貨幣(賃金)換算するともっとワカリヤスイ。ベテランは日給で3万円。バイトくんは8千円。と、こういうことだ。ワカランかな。
舞台がある。装置(ミザンテーヌ)を創る。釘一本の打ち方のチガイが舞台創りのチガイになって現れる。これが労働と労働力の差だ。
では、ベテランは釘一本を打つのに如何にして労働力を手にいれたか。これも簡単なことだ。時間と銭を費やしている。労働で得た賃金を釘一本打つための「力」をつけるのに換える。そのためにラーメンよりは肉を食って、筋肉をつける。チガウ舞台を観に行く。観劇料が要る。その舞台を批評するには、それくらいの銭を使わねばならない。何のための銭か。自ら観た他人の舞台を批評することによって、それを自身の「資本」とするのだ。本来「資本」と称される剰余価値は、搾取の結果ではナイ。搾取の結果ではナイものを搾取の結果としているのはマチガイだということを書いたのがマルクスの『資本論』で、マルクスはここにおいて、資本家は悪人だなどとは微塵も書いていない。また、下部構造、つまり経済が上部構造を創るなどともいってはいない。例えとしていったことはあるとしてだが。下部構造が労働であるのなら、上部構造は労働力だといっただけだ。私の読み方が正しければそうなる。たぶん、正しい。
しかし、支配(権力)はこのシステムを塗り替える。もともと支配とは「配ることを支える」ということで、分配をつかさどることだった。
権力はegoismの延長、拡張に該る。世界のあちこちで戦闘がある。現政権を倒すのにゲリラ勢力が闘っているという図がある。彼らは民衆に自由をなどというのが通例だが、けっきょくは権力が欲しいだけで、これが入れ代わっても、権力の首のすげ替えにしかならない。
それとはチガウ意味で演出は権力だ。権力でなければならない理由がある。労働力はその権力に隷属しない。労働は隷属する。労働力は演出という権力を「支配」する。釘一本を打つことによって。
私の望むスタッフは、労働力のある「ひと」であることを言明しておく。難しかったか。

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