エビリファイへの考察③改訂
「意識」というコトバはあるときは哲学などで慎重に扱われ、あるときは、医療現場でわりに安易に用いられている(目が覚めているか眠っているか程度に)。この混乱と錯綜が輪をかけて、「意識がはっきりとしない」というコトバがはっきりしないということになる。もちろん、このばあいの「意識」は、哲学用語の意識が用いられているワケではナイので、単に主観的になっているか客観的になっているかを判別出来る機能としての、事象としての意識だ。つまり「自分のことが自覚出来ますか」「自分を自覚する意識がハッキリしていますか」なのだ。
ところで、この「意識」を「愛」というコトバに置き換えてみたらどうなるだろう。どっちも掌に乗せて差し出すことの出来ない漠然としたことばだが、心的には強いエネルギーは持っているはずだ。すると、Eという向精神薬の副作用として「愛がはっきりしない」と書き換えられるのだが、これをわかりやすく動詞を導入して「愛していることがはっきりしない」「愛されていることがはっきりしない」とすれば、これは副作用のコトバとして通用するだろうか。私は通用すると思う。通用しないほうがどうかしている。精神医学の先駆者(pioneer)であるフロイトがさかんに用いたのは「愛」ではなかったか。
もし、二つの精神疾患の罹患者が「死」を考えるとき(双極性障害では希死念慮がみられるのは知られている)、そこには愛せなくなった自己が存在することになる。フロイトの著作『不安の問題』には、ナルチシズムの対象の自身が、憎悪に転換することについて書かれた箇所がみうけられる。難しいコトバを使わずにいっちゃえば、「オレ、もう自分のことが愛せなくなった。もう、死の」だ。じゃあ、死ぬか。誰が殺すのだ。自己(私・自分)にチガイナイ。ところが、その自己は愛せなくなった、愛されなくなった自己のはずだ。「そんなのに殺されちゃうのぉ。ヤだなあ」憎んでいるヤツに殺られるのはヤだ。そこで、死なない。ここには循環がみられる。しかし、この循環が断ち切られたらどうなるだろう。さきほどのように、「意識がはっきりしない」というのは、主語を付け足すと、この循環、「循環する意識がはっきりしない」とハッキリすんだろ。どや。つまり、主観と客観が循環せずに、どちらか一方が増大して一方を凌駕してしまうこと、この状態が、エビリファイの重篤な副作用として発現するのだ。じゃあ、何故に。もちろん、本作用がそのようになるように作用しているからだ。つまり統合失調症においては、主観と客観は混合して循環する。
余計なことかも知れないが、たとえば、このように病態、疾病をコトバから捉えていこうとする営為に対して、苦笑いやらせせら笑いやら、嘲笑している輩も多いとは、被害者妄想としてではなく勘定に入っている。「精神、神経疾患はコトバの問題ではなく脳の分泌物とレセプターに対する外力と内力の問題だよ、きみ」てなもんだな、たぶん。けどな、あの網野史観で有名な、網野善彦さんがやったように、歴史上のコトバの使用を洗い出すという作業はタイセツなことで、網野史観はそこがチガウと私は考えている。
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