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2013年3月30日 (土)

エビリファイへの考察⑪

少し思考実験のようなものをしてみる。まずA系に精神科医aと患者「私」を置く。そうしてB系に演劇の舞台における演技者としての相手役bと演技者としての「私」を置く。この両者に同じようなsituationを与える。もう少し些細、微妙にこの二人を観れば、つまり、ある生命体(生物)が対峙しているということがいえるところまでいける。場所は診察室と、舞台に創られた診察室というミザンテーヌだということがチガウ(ようにみえる)。
aにはaの身体と精神がある。つまり心的領域と精神領域がある。このとき、aはaと対自的(あるいは即自的)だから、(a←→a)という関係にあり、私との関係もあり、それは(a←→a)←→(私)だし、私も同様なので、(a←→a)←→(私←→私)という関係に置かれている。これはBについても同じことがいえる。心的領域(身体を基盤、包摂した精神領域)において、生命体(生物)が(a←→a)←→(私←→私)と、このようになる場合を端的にいえば「恋」がそうだ。Aにおいて精神科医と私は恋をしているワケではナイ。では、どんな関係にあるのだろうか。医師aは私に「イライラしますか」と訊ねる。私は「イライラというよりそわそわです」といったとする。このとき、医師aや私は自己自身を[表現]している。これはBでも同じだ。もし、チガウところがあるとすれば、Aにおいてaは、少なくとも私に対して「正常」でなければならない。何故なら精神科医だからだ。とはいえ、その保証、根拠はaが自ら自分のことを正常だと確信しているというところ以外にはナイ。つまり、Aの関係は、精神科医が必ず「正常」でなければならない。
仮に、そうであるとして、このあと実験を続けていくとどうなるのか。ヘーゲルの弁証法的に運動が続くなら(a←→a)←→(私←→私)の(a←→a)に対して(a←→a)から観たところの「私」が入り込み、aは[「私」を認識したところのa]になる。同様のことは「私」にも起きるので、私の場合は[「a」を認識したところの私]となる。
これはBの系でも同じだ。相手役どうしが相手役がどういうものであるのかということを認識しあって、芝居はすすんでいく。この両者の差異は、B系のbが自分を正常だと確信しなくてもいいことだ。この場合正常といういい方がそぐわなければ、bの演技が正しい演技ではナイ演じ方だということになる。このとき、その判定者(客観的立場の者)として、演出者が存在する。しかし、A系にはその判定者は存在しない。
もし、これがシェリングのいうような積極的弁証法ならば、B系において相手の演じ方によって、こちら(私)が受け方を変えた演じ方をするのと同様に、A系においては、aにも私は影響を与えて、aは変容することになる。シェリングの弁証法では、止揚の仕方は同じだが、止揚の前に、field workと同様、観察する者は観察されるものに影響を与えるので、かならずしも観察されたものは観察されたもの自体ではナイ、というfield workの欠陥と同じ、作用と反作用が生じることになる。
しかし、精神科医がブラウン神父の推理法(犯人と同じ気持ちになる)ようなことをしていたら、精神科医の「正常」が危うくなって来る。よって、データとガイドラインに頼らざるを得ないということになる。
B系の場合は演劇だから、主従の関係はなく、双方のやりとりが上手くいかない場合は、そこに演出者という客観(的)が入り込んで、妥当な状態を決める。もし、演出者客観がナイ場合は、現象学の本質直観のような方法がとられる。
何れにせよ、(a←→a)←→(私←→私)の心的な領域(身体性を包摂した精神現象)は、表現として表出される。
この場合B系はその度合いが高く、A系はその度合いは低いものの、主従という関係性が明確につくられる。主従というのはかたほうが正常でかたほうが異常であり、正常は正常な判断(と確信している判断)によって「私」を服従させることを目的的に置いてしまわねばならない。これを「治療」ということになる。

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