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2013年3月28日 (木)

エビリファイへの考察⑧

いま、精神科医から患者である私に「イライラしますか」と、訊かれたとする。と、単純にこれだけの文脈を記すと、果たしてその医師は、双極性障害の症状を問うているのか、その向精神薬による副作用を問うているのか、たぶんワカラナイだろう。冗談めかしていうと、私はその医師の「イライラしますか」という問いかけにイライラするはずだし、実際、そうなんだからしょうがない。そこで、私が曖昧なままでいると、次に「そわそわしますか」という問いが来る。これをひとくくりにして「落ち着きがナイですか」とまとめて問われたとしてもよい。この「イライラする」「そわそわする」「落ち着きがない」は三つとも、個別に症例として登場するし、副作用の作用としても登場するのだ。この三つの述語の主語はなんだろう。もう少し易しく述べればチガイはなんだろう。
疾病をもたなくとも、前述の三つの状態は健常者にも在る状態だ。待っているひとがなかなか来ないと、たいていはイライラするからな。しかし、「イライラする」と「そわそわする」は明確にチガウ。私たちは片恋のひとのそばにいて、そわそわすることはあってもイライラすることはナイ。しかし、落ち着きはなくなるだろう。
「イライラする」という演技と「そわそわする」という演技の双方が演じられるとして、「イライラする」よりは「そわそわする」のほうが、演技者にとっては身体的な感覚が強いと思われる。演技で現せばそのチガイは観てとれるはずだ。つまり、イライラするのは精神的な成分が多いのに比して、そわそわするのは身体的な成分が多いということになる。この前者を「精神現象」と称し、後者を「心的現象」と呼べば、「心的現象」というのは、身体性を包摂しているか、またはその逆に身体性に基盤をおいた精神性といえる。
そこで、「精神現象」と「心的現象」とのチガイを演劇の概念からひろってくると、単純に「演技における脳裏の幻想(image)」と「演技における身体幻想(image)」というふうにいえなくもナイ。イライラするは「演技における脳裏の幻想(image)」として演じられ、そわそわするは「演技における身体幻想(image)」として演じ分けられるのだ。これをもう少し突っ込んでみると、前者は時間的だし、後者は空間的だ。何がというと、演技者の了解の仕方がだ。だから、演技として演じる場合、演技者は前者を時間的な何かシチュエーションとして演じ、後者を空間的なシチャエーションとして演じる(演じ分ける)ことをするはずだ。もちろん、それがprototypeだとすれば、前者の持つ時間性をベクトル変容させて空間性に、また後者を時間性にベクトル変容させることも可能になる。
医療現場、あるいは自身の経験の卑近な部分で話をすると、私のような鬱病者が「イライラする」のは、「自分がイライラしていることがなんの理由でなのかワカラナイことに対してイライラしている」ことになる。待ち合わせの時間が過ぎても待ち人来らずで、イライラするのが常人ならば、「待ち人が来ない」ということで「イライラしている」自分に対してイライラしているのが、疾病を持ったものの発症だということになる。
従って医師の「イライラしますか」は、専門家としてはあまりイイ質問の仕方とはいえないのは自明のことだ。
精神科医は、この「イライラ」「そわそわ」「落ち着きがない」の理由を心因性のものか、外因性のものか、内因性のものかで判別する教育を受けている。しかし、私たちは演劇との対応をみながら、それを身体性と精神性の何らかの齟齬としてみようとしている。

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