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2013年3月30日 (土)

エビリファイへの考察⑩

エビリファイへの考察⑩
私たちはたぶん、精神科医が学習課程において、患者と接するときどのようなことすればいいのかという教育を、どんなふうに受けているのか知らないでいる。私の勘繰るところでは、患者は概ねカテゴライズされ、その蓋然性において、如何なる投薬をすればいいかを、それくらいのことは学んでいるはずだ。つまりガイドラインは頭に叩き込んであるということだ。しかし、精神科医療は、他の内科、外科、などの医療科目と違って、fieldworkが殆ど不可能な領域だといってもイイ。簡単にいえば、医師と患者が向き合ったとき、内科や胃腸科で、患者のインフルエンザは医師に感染するかもしれないし、その確率はあるが、患者の胃潰瘍が医師に感染するということはありえない。そんなことがあれば、癌患者を診察、診療、治療している医師の多くは発癌してしまうことになる。
ところで、精神科医療の場合その医師自身のカスタマイズが不味い場合、いわゆる患者に「引っ張られる」ということがままある。というよりたぶん、多くある。ということは、そうならないような方法論も精神科の医療に携わる医師たちは、医学生のときに学んでいるし、訓練も受けていると考えるほうが妥当だ。
私は最初の発症のとき、岐阜医大の知己を頼って診察を受けたが、この医師は誰にでもそうしているのか、あるいは私が知己だったので、それくらいの手の込んだことをしたのか、何れかだろうけど、徹底的に血液検査を一とする、あらゆる検査を受けさせた上で(その中には耳鼻咽喉科まで入っていた)、如何なる異常値も無かったことをまず提示し、私には身体的な欠陥、異常、障害、疾病は皆無だということを納得させた上で、治療に入った。おそらくは、いま、こんな精神科、神経科、神経内科の医師はいまい。この判断はある意味で正しかったといまも思うし、感謝もしている。ただ、げんざいの私の考え方においては、この真っ当で良心的で熱心な医療行為が、直接に私の疾病を治療したとは考えていない。倫理的には正しかったが、結果的にこの医療行為は、私を躓かせることにも結びついたことになる。つまり、そのとき、私は身体というものと精神というものをまったく分別されてしまったということだ。(何度も断るが、この医療行為が間違っていたといっているのではナイ。手続きとしてはこれ以上のものはナイほど優れていたと思う)。
私は、いまの精神科医の治療を受けるとき、自身にいいきかせたことが一つだけある。それは、自身は患者であり、患者を逸脱しないということだ。これはたとえば、私が自身の好奇心旺盛がための学習意欲と批評癖で、「いったい精神科の医師というものは、患者を治療診断するとき、何を根拠に何を考えながら、作業するものなんですか」という問いかけを医師にしないようにするためだ。これは、私にも幾つも想定出来たが、その何れかを用いているに過ぎないのなら、わざわざケンカを売るようなマネはしてはイケナイという暗黙の私自身にたいする戒めだった。
おそらく医師は、数々のデータと、ガイドラインを所持している。従って半分は統計学に依っている。もう半分は経験と勘と、考察からくる類推であり、その類推の大本は、医師自身の人生観だとしか考えにくい。

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