善人とは誰か、悪人とは何か
いい本、創って、やりたいことやって、早くgood byeといきたいもんだ。good byeはgoodなんだからgoodなんだろう。とはいえ、そう簡単にbye-byeさせてくれないから私はいつも南部麒六の満身創痍癖を味わうことになる。誰が悪いということでもナイ。といって誰が正しいとも思えない。では、何が善で何が悪なのか、コレステロールじゃあるまいし、そう単純なものではナイ。要するにこれを「関係」が生じさせる作用だとする。関係は「了解」と対応して動くと考えると、それは運動のようなものだ。だから作用が生ずるのはアタリマエなのだが、この作用、いわゆる「結果の轍」というのが、疎ましい。
吉本さんの「関係の絶対性」は『マチウ書試論』でキリスト教からmotivationを得ているけれど、のちのちそれは「親鸞」の思想に辿り着く。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」と来るのだ。ここでは、明確ではナイけれど、というより、あたかも不明確を前提としているかのように善人と悪人とが分けられて、要するに阿弥陀仏の本願によってどっちも往生する。弥陀の本願は全ての衆生が往生するまでは自らも仏にならないということだ。だから阿弥陀仏が存在するというのは矛盾になる。だから阿弥陀仏にすがって他力本願で往生する、というのも矛盾になる。つまり他力の大将の他力はまったく運動していない。ニュートン力学においての運動方程式(第二法則)F(力)=m(質量)×a(加速度)だが、このF(他力)が働いていないのだ。それは作用(世間)をみればワカル。これがほんまの「往生しまっせだ」。
善と悪というのは、およそその作用のさらに「結果」であって、善人がいて善をするのではなく、悪人がいて悪をするのではナイ。そんなものはマーベル・コミックス(Marvel Comics)の世界にしかナイ、マンガでっせ。
とはいえ「関係の絶対性」というのはニュートン力学でしか通用せず、量子力学にまで行き着くと、「関係の偶然性」「関係の確率性」になってしまう。量子力学においては、この「関係の絶対性」というヘーゲルやマルクスにおける弁証法的なaufhebenは、あっさりきれいにすっかり消えてなくなる。つまり「絶対」というコトバが消滅するからだ。量子力学というと、何か自然に対する特殊な観方のように思えるが、そうではナイ。自然それ自体がそうなのだ。で、あるならば、世間の様態は量子力学のモデルに近い。
私の理屈では「夢(虚構)」と「現実」はべつものではナイ。相平面と複素数平面という平面に関数として存在する。(これはこの晩秋上梓される予定の『恋愛的演劇論』を読んでもらえばイイ)。従って「夢を現実のものにしよう」という言説などは、まったく意味をなさない。ある舞台創造をして、スタッフが実現させる夢とは、演出家のegoではナイ。もし、そう考えるならば、スタッフは「献身」か「犠牲」のものとなる。フーコー流にいうなれば、権力と服従の問題でしかナイ。舞台にある夢(虚構)は倫理的には観客の欲望だ。観客の欲望というのはいつも「極限」だから、大きさと向きは確かに在るのだが、行き着くところがナイ。献身でも犠牲でもナイ、「食う」ためでイイではないか。それもまた「極限」だ。いま「食えない」が「食う」ために大きさと向きは確かに在るのだから。
私はいま二本の戯曲をパラレルに創作しているが、何れもテーマ(のようなものがあるとすればだけど)は、冷酷な善人と温和な悪人の、固有の時間を空間でベクトル変容させた内容になっている。ベクトル変容なんてコトバに驚いてちゃいけねえ。要するに、ベクトルなんだから、その大きさと向きを変容させてるってことだ。こういうコトバを私はハッタリで使っているワケではナイ。ただワカリヤスイのだ。(私にとってはだけど)。
でと、結語。私はいわゆる悪人か、善人か。どんなに私が善かれと思っても、関係は絶対性であり「偶然性」であり「確率性」だ。だから、結果、いつもマルキ・ド・サドとアルベール・カミュが握手してハグハグしているようなもんになる。
私は親鸞より一休(宗純)が好きだなあ。だって、一休の反抗はただごとじゃナイもんな。親鸞には愛は感じないが、一休にだけは、私は宗教者としても、人間としても強い愛を感じること出来る。あんなにひとが愛せたらなあ。ただ、悔しまぎれかも知れないが、いわせてもらえば「愛を他人まかせにするな」。愛は他力ではナイのだ。かといって自力でも成り立たぬ。愛に翼などはないぞ。翼を下さいなんてあまえていてはイケナイ。ともかく一緒に歩くことだ。愛を捜さんとすれば、文字通り歩くことだ。のろけていうのではナイが、歩いている時間はいまの嫁さんとが、最も多い。
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