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2013年3月31日 (日)

エビリファイへの考察⑫

さて、やっとここにもどって来るのだが、では、なにをしてそのモノを「異常」といい、あるいは「病的」と決めるのだろうか。いま精神科医にあるのはデータとガイドラインだけで、それのみが客観(的なもの)として存在する。さらに問題をすすめるならば、それらで、たとえ線引き、基準、根拠が出揃ったとして、その(患者の)状態の何がいったい「アカン」のだろうか。
「アカン」理由は端的にいえば二つある。一つは他者にたいして迷惑をかける(迷惑な行為となる場合がある)。一つは自身に対して害になる(自殺にまでいく場合がある)。そうすると、こうもいえる。他者にたいして迷惑でなく、自身に害がなければ、異常であろうが、病的だろうが、「アカン」ということはナイ。(害があるから異常で病的だというのだ、となると循環論になってしまうので、ここは、それは避ける)
たとえば、煙草は副流煙が他者に迷惑で害を与え、喫煙は自身の健康にも害になる。そのために公共は何をしたか、喫煙者を追いやった。隔離した。監察、監視するようになった。これはホームレスに対しても相似的なことがいえる。家なき人々をさらに追いやった。
注意、あるいは留意しておけば、患者は「弱者」だという命題が通るならば、そうでないもの(その筆頭でもある)精神科医は「強者」となる。これは前説で主従の関係として述べた。
心的現象と精神現象のチガイを復習っておこう。心的というとき、私たちは「身体」という生命体(生物)の持つ特異性を問題にしている。これは演劇(演技)営為からも図れることと思われる。つまり「表出⇒表現」が、外界(身体そのもの)と環境世界によって疎外されるとき、その営為は心的現象だといえる。それは演技営為以外の日常行為においても、衝動、情緒、感情、心情、理性、悟性、などなどが、疎外された場合だ。演技営為においては、自身の演技が、自身の身体(身体性)があるためにイメージどおりにうまくいってくれない、ことを指す。ここには時間性と空間性が在る。つまり、身体を自然の一部だと設定するならば、身体そのものが身体そのものから疎外されている場合と、身体の存在が自然(環境世界)から疎外されている場合と、に、分けられる。演技の妨げ(疎外)が身体そのものによるものなのか、身体とその環境世界によるものなのか。それらの時間性と空間性が錯綜するところに、原因が求められる。これらは、心因性、外因性、内因性という因果とはチガッタ身体性における分類だ。もし、それらと、どうしても結びつけるとするならば、心因性(気分の問題)、外因性(外部からの刺激の問題)、内因性(内部の疾病や遺伝子の問題)のすべてに共通する生命体(生物)という身体性の在り方と、在り方自体の関係と、在り方と自然環境世界との関係とを、病的、異常という「了解」で演繹、帰納したものだ。簡単に演劇的にいえば、私たちはココロだけで舞台に立っているのではなく身体として舞台に立っているということだ。よって、私たちの表現は舞台の持つ時間性と空間性の疎外を受けるということだ。
そこで「異常」とは、演技に置換していうならば、舞台に立ったときの空間度の把握と時間度の把握が喪失されないまま(対応はしているのだが)、その舞台の上での演技が疎外される心的現象としての異変をいい、「病的」とは、舞台に立ったときの空間度の把握と時間度の把握が喪失されてしまっている(把握出来ないでいる)心的現象の異変をいえばいいことになる。前者は経験者(プロなど)に起きることであるし、後者は素人(ビギナー)に生ずることといいなおしてもイイ。

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