無料ブログはココログ

« エビリファイへの考察⑥改訂 | トップページ | エビリファイへの考察return »

2013年3月22日 (金)

エビリファイへの考察⑦改訂


クスリ飲まないと生きていけねえ。それが35年間だ。いまの嫁さんの歳より長い。だからといって何なのだ。キチガイにも生きていく権利がある、てな人倫をいっているんじゃナイ。普通の(と、何が普通なのかいまのところは明らかでナイが)御仁も飯食わなきゃ生きていけねえ。飯食うためには銭稼がなきゃいけねえ。オレだって、なんべんも、掌に乗っけたクスリを投げ捨てて、もう厭きたと思ったワ。なんしろ、35年だからな。しかし、癪にさわったンだなあ。生きているということが。命なんざ人生にくれてやればイイと思ったらしい。如何に生きるかなんてカッコつけてるのでもナイ。やることがあるならやってから死ぬってのでもイイ。というより、やらねばならないことはナイのかと思ったんだナア。で、まあ、いろいろあって、いまだ。使い捨てでイイんだ。どう考えても足掻いても命というのは使い捨てにしか過ぎない。いつかは死ぬのだし、そのいつかは、まったく本人には、自分にはワカラナイ。この諦めから始まるものもアルってことだワサ。そう「悟った」ときは三十過ぎ(としておこう、ほんとは悟ってなどイナイから)まあ、覚悟したといっても意味は変わらない。
哲学的に自殺をした御仁の本、読んだ。ケッコ毛だらけネコ灰だらけ穴のまわりは糞だらけ、感想一つ「勝手にすればイイ」。いますぐ死ななくとも、ひとは必ず死ぬ、しかも次第に死んでいくのだ。自死を前提にしても同じことじゃナイか。時間のschemaがチガウだけじゃないか、ゆっくり自殺(自死)するでイイのだ。出来るだけ気がすむように生きておさらばでイイじゃないか。芥川龍之介は『侏儒の言葉』でたしか「神に出来ないことは自殺だ」とかいってたが、死ねないことは死ぬことより辛い(どっちも経験ナイけど)。従って天国というのは永遠という時間の地獄だ(行ったことナイけど、覗いてみるくらいはしたいと思うけど)。
ただ、いま、思うのは、「正常」「普通」「健常」とはナンだ。「異常」「病的」とはナンだ。基準をいっているのではナイのよ。根拠(エビデンス)を示せといっているのだ。精神科医とやらに。いや、せめて「私とは何」という前に、問うてみよ、どなたさんも。

私たちがあのひと、という特定のひとを指して「オカシイ」というとき、「いつもと」という前提のような呪文が付く。「いつもとチガウ」のだ、から「オカシイ」。この「いつも」というのは、普段の日常生活をいう。圧倒的に固有なもの、個人史だ。「金では解決のつかないこともある」というのは金持ちのいうことで、貧乏人の私たちは、一度でいいからそんなことをいってみたいと思っている。私たちのいいぶんはいつも「銭さへあれば解決出来るのになあ」だからだ。「いつも」はそんな日常生活をいう。ところで、金持ちと貧乏人は金銭の使い方はおそらくかなりの格差を持っているにチガイナイ。そうすると、日常的に銭のあるヤツは健常、正常で(あるいは異常で)、貧乏人は異常(あるいは正常)だとする尺度のようなもの(漠然とした思考)を以て、「異常」と「正常」を通俗的に私たちは分けてしまっているところがある。キリスト教も「貧しきものは幸いだ」とはいってみたが、後に「貧しき者にも善人と悪人がいる」に教義を変えた時代があったらしい。もちろん、こんなものに根拠はナイ。単なる日常生活のチガイでしかナイからだ。では、もうひとつ。固有でナイ普遍的なものではどうなる。いわゆる、外因性、内因性、心因性と、脳生理学、神経生理学、精神医療で用いられるカテゴライズだ。精神医療、精神科医の三種の神器だ。

« エビリファイへの考察⑥改訂 | トップページ | エビリファイへの考察return »

病歴」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/57011393

この記事へのトラックバック一覧です: エビリファイへの考察⑦改訂:

« エビリファイへの考察⑥改訂 | トップページ | エビリファイへの考察return »