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2013年3月29日 (金)

エビリファイへの考察⑨

エビリファイを3㎎、朝夕2回、合計6㎎服用したときの副作用(作用)をチガウ観点から述べてみる。イライラするとか、そわそわとか、あるにはあったが、そういったものに対しては私自身あまり興味を持てなかった。前回の空間的な位相と時間的な位相とでこれを解説していくと、私は空間的には「臨死体験」というものがこれと似ているのではないかと思ったし、時間的には、私を私が捉える識知が遅延しているのを感じた。前者をチガウふうにいえば、デジタルということになり、後者はアナログということになる。つまり私は眼としてと耳としてとの私自身に対する認識を明確に分離されているという気がした。
疾病として経験したことはナイが、ひょっとすると、統合失調症の発症、症状はこんなふうなものではないのかなと、推測した。
本来、眼からの刺激と反応と耳からの刺激と反応は、どこかでコヒーレンスしているはずなのだ。つまり両者の波動は、ゆらぎとゆらぎの増幅(あるいは打ち消し)として、ある像を結んでいるはずなのだ。それが、まったく分かれて識知されてしまうということは、身体にとって極めて強い「疎外」となるにチガイナイ。と、私に了解出来たのはそこまでで、たしかに私の身体は、そのとき、強い疎外感に苛まれていた。これは心因性のものでもなければ、外因性や内因性のものでもナイ。
私はなるがままに私を「表出」しているのだが、それは即ち「疎外」だということがよくワカル。ここでの私は「なるがまま」の私であって「あるがまま」の私ではナイと、実存的にいってもイイ。つまり「私ガアル」だけで「私デアル」の根拠がナイ。これをまた演劇に対応させて考察してみる。
断っておくが、というか、アタリマエのことだが、演技には心因性も外因性も内因性も存在しない。というと、ここで、おやっというものもあるはずだ。スタニスラフスキー・システムや、リー・ストラスバーグのメソッドは、そこを重視して、それらを心理学的に組み立てた演技術(論)ではないのか、と。しかし、私にしてみればこの「重視」というのはたんなる「拘泥」にしか過ぎないと思われる。演技者が置かれる情況は、演技者自身とその環境(situation)としての舞台だけだ。そこには、演技者自身の身体という、自身と自身の関係と了解という、心的な領域と、さらにその身体と関係する舞台という、演技者の表出の場があるだけで、演技者はその場(舞台)に踏み込むやいなや、自身の表出がそのまま自身へ疎外として反作用する情況(状態)に置かれるだけだ。これは一つの「状態ベクトル」だ。つまり、ベクトルにベクトルが重ね合わされるという状態だ。このベクトル合成が成り立って、新しいベクトルが生ずるとするならば、空間的位相と時間的位相は齟齬なく関数となり得るだろうが、それがまったく分離してしまうということは、演技者にとって、自身の身体は自身の眼で観られながら自身ではなく、耳として連続(連なって)であるはずが、単に遅延してやってくる(あたかもせりふを思い出しながら語っているといったふうな)感覚の下に置かれるということで、それこそを表出=疎外というふうに論じてもいいような気がしてしまう。これはスタニスラフスキーのいう同化に対する不可知の失敗や、ブレヒトのいう異化における客観視とはまるでチガウ、本質的なものだ(本質というのが不自由ならば、自然なものだといってもさほどの差はナイ)。演技者は、この分離された自身の身体とどう争闘するのだろうか。

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