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2013年3月

2013年3月31日 (日)

エビリファイへの考察⑫

さて、やっとここにもどって来るのだが、では、なにをしてそのモノを「異常」といい、あるいは「病的」と決めるのだろうか。いま精神科医にあるのはデータとガイドラインだけで、それのみが客観(的なもの)として存在する。さらに問題をすすめるならば、それらで、たとえ線引き、基準、根拠が出揃ったとして、その(患者の)状態の何がいったい「アカン」のだろうか。
「アカン」理由は端的にいえば二つある。一つは他者にたいして迷惑をかける(迷惑な行為となる場合がある)。一つは自身に対して害になる(自殺にまでいく場合がある)。そうすると、こうもいえる。他者にたいして迷惑でなく、自身に害がなければ、異常であろうが、病的だろうが、「アカン」ということはナイ。(害があるから異常で病的だというのだ、となると循環論になってしまうので、ここは、それは避ける)
たとえば、煙草は副流煙が他者に迷惑で害を与え、喫煙は自身の健康にも害になる。そのために公共は何をしたか、喫煙者を追いやった。隔離した。監察、監視するようになった。これはホームレスに対しても相似的なことがいえる。家なき人々をさらに追いやった。
注意、あるいは留意しておけば、患者は「弱者」だという命題が通るならば、そうでないもの(その筆頭でもある)精神科医は「強者」となる。これは前説で主従の関係として述べた。
心的現象と精神現象のチガイを復習っておこう。心的というとき、私たちは「身体」という生命体(生物)の持つ特異性を問題にしている。これは演劇(演技)営為からも図れることと思われる。つまり「表出⇒表現」が、外界(身体そのもの)と環境世界によって疎外されるとき、その営為は心的現象だといえる。それは演技営為以外の日常行為においても、衝動、情緒、感情、心情、理性、悟性、などなどが、疎外された場合だ。演技営為においては、自身の演技が、自身の身体(身体性)があるためにイメージどおりにうまくいってくれない、ことを指す。ここには時間性と空間性が在る。つまり、身体を自然の一部だと設定するならば、身体そのものが身体そのものから疎外されている場合と、身体の存在が自然(環境世界)から疎外されている場合と、に、分けられる。演技の妨げ(疎外)が身体そのものによるものなのか、身体とその環境世界によるものなのか。それらの時間性と空間性が錯綜するところに、原因が求められる。これらは、心因性、外因性、内因性という因果とはチガッタ身体性における分類だ。もし、それらと、どうしても結びつけるとするならば、心因性(気分の問題)、外因性(外部からの刺激の問題)、内因性(内部の疾病や遺伝子の問題)のすべてに共通する生命体(生物)という身体性の在り方と、在り方自体の関係と、在り方と自然環境世界との関係とを、病的、異常という「了解」で演繹、帰納したものだ。簡単に演劇的にいえば、私たちはココロだけで舞台に立っているのではなく身体として舞台に立っているということだ。よって、私たちの表現は舞台の持つ時間性と空間性の疎外を受けるということだ。
そこで「異常」とは、演技に置換していうならば、舞台に立ったときの空間度の把握と時間度の把握が喪失されないまま(対応はしているのだが)、その舞台の上での演技が疎外される心的現象としての異変をいい、「病的」とは、舞台に立ったときの空間度の把握と時間度の把握が喪失されてしまっている(把握出来ないでいる)心的現象の異変をいえばいいことになる。前者は経験者(プロなど)に起きることであるし、後者は素人(ビギナー)に生ずることといいなおしてもイイ。

観劇『罪と罰』(劇団うりんこ)の感想文

storyはよくわかりました。storyしかワカリマセンでした。
あの長編小説を1時間50分の舞台にした山崎清介さんの才力には脱帽です。
シェイクスピアなら、ありゃあ、storyを楽しむ演目ですから、それで良かったとおもわれます。しかし、不遜を承知でいうなら、ドストエフスキーの小説のお話は陳腐でオモシロイものではありません。
そんなことは、清介さんはたぶん百も承知だったとおもいます。ですから、あの位相と順序の構造の脚色は間違っていないはずです。お見事でした。(唯一の失点は、当時のロシアの情勢、庶民大衆の貧困な暮らしがみえにくかったことです)。
問題になってくるのは、演技です。
ラスコーリニコフは、中心点です。ほかの近傍の登場人物の演じ方を[加速度の重力を持った運動エネルギー]だとすると、ラスコーリニコフは[ポテンシャル(位置)の重力としてのエネルギー]ですから、演技表現も他と明確にエネルギーの質を分けなければいけません。これがなかったので、ラスコーリニコフは単なる坊ちゃんにしかみえませんでした。
これらは役づくりというものとも関係してくるとおもわれます。「役づくり」というものを重要視する演技形態について、私はあまり賛成しない輩です。
スタニスラフスキーは、おそらく、それ(役者が役に同化するのではなく、役に逃げ込むこと)を防ぐために「超課題」を提唱したのでしょうが、彼自身、それを論理的にいいきれていないなというのが、彼の著作『俳優修業』を読んでの感触でした。(もちろん、私が読みきれていないだけなんでしょうけど)。ブレヒトの役に対する批判的接し方(いわゆる異化)は弁証法云々などとは何の関係もナイ、自然過程の問題です。当時の弁証法はマルクス=レーニンの変形タイプですから、稚拙ながら一応弁証法を学んだものからみると、ブレヒトのそれは弁証法とはまったく縁のないインテリへの猫だましにしか過ぎません。
清介さんの演出には、役のステロタイプ化、prototype化を避けようとした形跡がありありとみえました。ここは演出者としての争闘だったとおもわれます。しかし、それは演出者が意図したほどうまくはいかなかったのではないかというのが、私の不埒な感想です。卑俗ないい方をすれば中途半端になってしまいました。
ラストシーンのclimaxで、ソーニャに諭されてラスコくんが、地面に接吻し、全ての登場人物に自身の罪を宣言するところ、あそこをネ、それぞれの登場人物に論戦をしかけて、ラスコくんの理論によって論破していくてなふうに変えてしまうと私はきっとオモシロガッタと勝手に思ってます。
やはり、演劇は情況の子です。「何故、ひとを殺してはいけないのか」という[現在]が突きつける問題に、一矢報いてもらいたかったというのが、無い物ねだりです。

2013年3月30日 (土)

エビリファイへの考察⑪

少し思考実験のようなものをしてみる。まずA系に精神科医aと患者「私」を置く。そうしてB系に演劇の舞台における演技者としての相手役bと演技者としての「私」を置く。この両者に同じようなsituationを与える。もう少し些細、微妙にこの二人を観れば、つまり、ある生命体(生物)が対峙しているということがいえるところまでいける。場所は診察室と、舞台に創られた診察室というミザンテーヌだということがチガウ(ようにみえる)。
aにはaの身体と精神がある。つまり心的領域と精神領域がある。このとき、aはaと対自的(あるいは即自的)だから、(a←→a)という関係にあり、私との関係もあり、それは(a←→a)←→(私)だし、私も同様なので、(a←→a)←→(私←→私)という関係に置かれている。これはBについても同じことがいえる。心的領域(身体を基盤、包摂した精神領域)において、生命体(生物)が(a←→a)←→(私←→私)と、このようになる場合を端的にいえば「恋」がそうだ。Aにおいて精神科医と私は恋をしているワケではナイ。では、どんな関係にあるのだろうか。医師aは私に「イライラしますか」と訊ねる。私は「イライラというよりそわそわです」といったとする。このとき、医師aや私は自己自身を[表現]している。これはBでも同じだ。もし、チガウところがあるとすれば、Aにおいてaは、少なくとも私に対して「正常」でなければならない。何故なら精神科医だからだ。とはいえ、その保証、根拠はaが自ら自分のことを正常だと確信しているというところ以外にはナイ。つまり、Aの関係は、精神科医が必ず「正常」でなければならない。
仮に、そうであるとして、このあと実験を続けていくとどうなるのか。ヘーゲルの弁証法的に運動が続くなら(a←→a)←→(私←→私)の(a←→a)に対して(a←→a)から観たところの「私」が入り込み、aは[「私」を認識したところのa]になる。同様のことは「私」にも起きるので、私の場合は[「a」を認識したところの私]となる。
これはBの系でも同じだ。相手役どうしが相手役がどういうものであるのかということを認識しあって、芝居はすすんでいく。この両者の差異は、B系のbが自分を正常だと確信しなくてもいいことだ。この場合正常といういい方がそぐわなければ、bの演技が正しい演技ではナイ演じ方だということになる。このとき、その判定者(客観的立場の者)として、演出者が存在する。しかし、A系にはその判定者は存在しない。
もし、これがシェリングのいうような積極的弁証法ならば、B系において相手の演じ方によって、こちら(私)が受け方を変えた演じ方をするのと同様に、A系においては、aにも私は影響を与えて、aは変容することになる。シェリングの弁証法では、止揚の仕方は同じだが、止揚の前に、field workと同様、観察する者は観察されるものに影響を与えるので、かならずしも観察されたものは観察されたもの自体ではナイ、というfield workの欠陥と同じ、作用と反作用が生じることになる。
しかし、精神科医がブラウン神父の推理法(犯人と同じ気持ちになる)ようなことをしていたら、精神科医の「正常」が危うくなって来る。よって、データとガイドラインに頼らざるを得ないということになる。
B系の場合は演劇だから、主従の関係はなく、双方のやりとりが上手くいかない場合は、そこに演出者という客観(的)が入り込んで、妥当な状態を決める。もし、演出者客観がナイ場合は、現象学の本質直観のような方法がとられる。
何れにせよ、(a←→a)←→(私←→私)の心的な領域(身体性を包摂した精神現象)は、表現として表出される。
この場合B系はその度合いが高く、A系はその度合いは低いものの、主従という関係性が明確につくられる。主従というのはかたほうが正常でかたほうが異常であり、正常は正常な判断(と確信している判断)によって「私」を服従させることを目的的に置いてしまわねばならない。これを「治療」ということになる。

エビリファイへの考察⑩

エビリファイへの考察⑩
私たちはたぶん、精神科医が学習課程において、患者と接するときどのようなことすればいいのかという教育を、どんなふうに受けているのか知らないでいる。私の勘繰るところでは、患者は概ねカテゴライズされ、その蓋然性において、如何なる投薬をすればいいかを、それくらいのことは学んでいるはずだ。つまりガイドラインは頭に叩き込んであるということだ。しかし、精神科医療は、他の内科、外科、などの医療科目と違って、fieldworkが殆ど不可能な領域だといってもイイ。簡単にいえば、医師と患者が向き合ったとき、内科や胃腸科で、患者のインフルエンザは医師に感染するかもしれないし、その確率はあるが、患者の胃潰瘍が医師に感染するということはありえない。そんなことがあれば、癌患者を診察、診療、治療している医師の多くは発癌してしまうことになる。
ところで、精神科医療の場合その医師自身のカスタマイズが不味い場合、いわゆる患者に「引っ張られる」ということがままある。というよりたぶん、多くある。ということは、そうならないような方法論も精神科の医療に携わる医師たちは、医学生のときに学んでいるし、訓練も受けていると考えるほうが妥当だ。
私は最初の発症のとき、岐阜医大の知己を頼って診察を受けたが、この医師は誰にでもそうしているのか、あるいは私が知己だったので、それくらいの手の込んだことをしたのか、何れかだろうけど、徹底的に血液検査を一とする、あらゆる検査を受けさせた上で(その中には耳鼻咽喉科まで入っていた)、如何なる異常値も無かったことをまず提示し、私には身体的な欠陥、異常、障害、疾病は皆無だということを納得させた上で、治療に入った。おそらくは、いま、こんな精神科、神経科、神経内科の医師はいまい。この判断はある意味で正しかったといまも思うし、感謝もしている。ただ、げんざいの私の考え方においては、この真っ当で良心的で熱心な医療行為が、直接に私の疾病を治療したとは考えていない。倫理的には正しかったが、結果的にこの医療行為は、私を躓かせることにも結びついたことになる。つまり、そのとき、私は身体というものと精神というものをまったく分別されてしまったということだ。(何度も断るが、この医療行為が間違っていたといっているのではナイ。手続きとしてはこれ以上のものはナイほど優れていたと思う)。
私は、いまの精神科医の治療を受けるとき、自身にいいきかせたことが一つだけある。それは、自身は患者であり、患者を逸脱しないということだ。これはたとえば、私が自身の好奇心旺盛がための学習意欲と批評癖で、「いったい精神科の医師というものは、患者を治療診断するとき、何を根拠に何を考えながら、作業するものなんですか」という問いかけを医師にしないようにするためだ。これは、私にも幾つも想定出来たが、その何れかを用いているに過ぎないのなら、わざわざケンカを売るようなマネはしてはイケナイという暗黙の私自身にたいする戒めだった。
おそらく医師は、数々のデータと、ガイドラインを所持している。従って半分は統計学に依っている。もう半分は経験と勘と、考察からくる類推であり、その類推の大本は、医師自身の人生観だとしか考えにくい。

2013年3月29日 (金)

エビリファイへの考察⑨

エビリファイを3㎎、朝夕2回、合計6㎎服用したときの副作用(作用)をチガウ観点から述べてみる。イライラするとか、そわそわとか、あるにはあったが、そういったものに対しては私自身あまり興味を持てなかった。前回の空間的な位相と時間的な位相とでこれを解説していくと、私は空間的には「臨死体験」というものがこれと似ているのではないかと思ったし、時間的には、私を私が捉える識知が遅延しているのを感じた。前者をチガウふうにいえば、デジタルということになり、後者はアナログということになる。つまり私は眼としてと耳としてとの私自身に対する認識を明確に分離されているという気がした。
疾病として経験したことはナイが、ひょっとすると、統合失調症の発症、症状はこんなふうなものではないのかなと、推測した。
本来、眼からの刺激と反応と耳からの刺激と反応は、どこかでコヒーレンスしているはずなのだ。つまり両者の波動は、ゆらぎとゆらぎの増幅(あるいは打ち消し)として、ある像を結んでいるはずなのだ。それが、まったく分かれて識知されてしまうということは、身体にとって極めて強い「疎外」となるにチガイナイ。と、私に了解出来たのはそこまでで、たしかに私の身体は、そのとき、強い疎外感に苛まれていた。これは心因性のものでもなければ、外因性や内因性のものでもナイ。
私はなるがままに私を「表出」しているのだが、それは即ち「疎外」だということがよくワカル。ここでの私は「なるがまま」の私であって「あるがまま」の私ではナイと、実存的にいってもイイ。つまり「私ガアル」だけで「私デアル」の根拠がナイ。これをまた演劇に対応させて考察してみる。
断っておくが、というか、アタリマエのことだが、演技には心因性も外因性も内因性も存在しない。というと、ここで、おやっというものもあるはずだ。スタニスラフスキー・システムや、リー・ストラスバーグのメソッドは、そこを重視して、それらを心理学的に組み立てた演技術(論)ではないのか、と。しかし、私にしてみればこの「重視」というのはたんなる「拘泥」にしか過ぎないと思われる。演技者が置かれる情況は、演技者自身とその環境(situation)としての舞台だけだ。そこには、演技者自身の身体という、自身と自身の関係と了解という、心的な領域と、さらにその身体と関係する舞台という、演技者の表出の場があるだけで、演技者はその場(舞台)に踏み込むやいなや、自身の表出がそのまま自身へ疎外として反作用する情況(状態)に置かれるだけだ。これは一つの「状態ベクトル」だ。つまり、ベクトルにベクトルが重ね合わされるという状態だ。このベクトル合成が成り立って、新しいベクトルが生ずるとするならば、空間的位相と時間的位相は齟齬なく関数となり得るだろうが、それがまったく分離してしまうということは、演技者にとって、自身の身体は自身の眼で観られながら自身ではなく、耳として連続(連なって)であるはずが、単に遅延してやってくる(あたかもせりふを思い出しながら語っているといったふうな)感覚の下に置かれるということで、それこそを表出=疎外というふうに論じてもいいような気がしてしまう。これはスタニスラフスキーのいう同化に対する不可知の失敗や、ブレヒトのいう異化における客観視とはまるでチガウ、本質的なものだ(本質というのが不自由ならば、自然なものだといってもさほどの差はナイ)。演技者は、この分離された自身の身体とどう争闘するのだろうか。

2013年3月28日 (木)

エビリファイへの考察⑧

いま、精神科医から患者である私に「イライラしますか」と、訊かれたとする。と、単純にこれだけの文脈を記すと、果たしてその医師は、双極性障害の症状を問うているのか、その向精神薬による副作用を問うているのか、たぶんワカラナイだろう。冗談めかしていうと、私はその医師の「イライラしますか」という問いかけにイライラするはずだし、実際、そうなんだからしょうがない。そこで、私が曖昧なままでいると、次に「そわそわしますか」という問いが来る。これをひとくくりにして「落ち着きがナイですか」とまとめて問われたとしてもよい。この「イライラする」「そわそわする」「落ち着きがない」は三つとも、個別に症例として登場するし、副作用の作用としても登場するのだ。この三つの述語の主語はなんだろう。もう少し易しく述べればチガイはなんだろう。
疾病をもたなくとも、前述の三つの状態は健常者にも在る状態だ。待っているひとがなかなか来ないと、たいていはイライラするからな。しかし、「イライラする」と「そわそわする」は明確にチガウ。私たちは片恋のひとのそばにいて、そわそわすることはあってもイライラすることはナイ。しかし、落ち着きはなくなるだろう。
「イライラする」という演技と「そわそわする」という演技の双方が演じられるとして、「イライラする」よりは「そわそわする」のほうが、演技者にとっては身体的な感覚が強いと思われる。演技で現せばそのチガイは観てとれるはずだ。つまり、イライラするのは精神的な成分が多いのに比して、そわそわするのは身体的な成分が多いということになる。この前者を「精神現象」と称し、後者を「心的現象」と呼べば、「心的現象」というのは、身体性を包摂しているか、またはその逆に身体性に基盤をおいた精神性といえる。
そこで、「精神現象」と「心的現象」とのチガイを演劇の概念からひろってくると、単純に「演技における脳裏の幻想(image)」と「演技における身体幻想(image)」というふうにいえなくもナイ。イライラするは「演技における脳裏の幻想(image)」として演じられ、そわそわするは「演技における身体幻想(image)」として演じ分けられるのだ。これをもう少し突っ込んでみると、前者は時間的だし、後者は空間的だ。何がというと、演技者の了解の仕方がだ。だから、演技として演じる場合、演技者は前者を時間的な何かシチュエーションとして演じ、後者を空間的なシチャエーションとして演じる(演じ分ける)ことをするはずだ。もちろん、それがprototypeだとすれば、前者の持つ時間性をベクトル変容させて空間性に、また後者を時間性にベクトル変容させることも可能になる。
医療現場、あるいは自身の経験の卑近な部分で話をすると、私のような鬱病者が「イライラする」のは、「自分がイライラしていることがなんの理由でなのかワカラナイことに対してイライラしている」ことになる。待ち合わせの時間が過ぎても待ち人来らずで、イライラするのが常人ならば、「待ち人が来ない」ということで「イライラしている」自分に対してイライラしているのが、疾病を持ったものの発症だということになる。
従って医師の「イライラしますか」は、専門家としてはあまりイイ質問の仕方とはいえないのは自明のことだ。
精神科医は、この「イライラ」「そわそわ」「落ち着きがない」の理由を心因性のものか、外因性のものか、内因性のものかで判別する教育を受けている。しかし、私たちは演劇との対応をみながら、それを身体性と精神性の何らかの齟齬としてみようとしている。

2013年3月22日 (金)

エビリファイへの考察return

ブログ本欄を読み直すこともなく、書き散らかしていたので、疑問符ばかりで埋まってしまっていて、さらに、文章は「ちょっとオカシイ」「いつもとチガウ」ご様子。(重複したり、あちこち飛んだりしてネ)、しかしこれぞまさしくエビリファイの副作用下にあって、必死に抗って書き留めている力仕事だと思って容赦してもらいたいところで、一文書くと、抗いによるエネルギーの消費と疲弊で、書き終わると血圧は160-100辺りになってしまう。一日に二本書くと、先の文案の記憶があやふやになってしまっている。『ネオ・ポピュリズム』の中でもまとまりのナイ文章だ。面倒だけど、置いた石の味が悪いので、ざっとまとめなおすことにした。けっきょく⑦まで全部に筆を入れて改訂してみた。このシリーズはaggressiveにまだまだ続けるが、とりあえず、大阪、札幌と流れ者するので、再開は4月からになりそう。ではでは。(主筆)

エビリファイへの考察⑦改訂


クスリ飲まないと生きていけねえ。それが35年間だ。いまの嫁さんの歳より長い。だからといって何なのだ。キチガイにも生きていく権利がある、てな人倫をいっているんじゃナイ。普通の(と、何が普通なのかいまのところは明らかでナイが)御仁も飯食わなきゃ生きていけねえ。飯食うためには銭稼がなきゃいけねえ。オレだって、なんべんも、掌に乗っけたクスリを投げ捨てて、もう厭きたと思ったワ。なんしろ、35年だからな。しかし、癪にさわったンだなあ。生きているということが。命なんざ人生にくれてやればイイと思ったらしい。如何に生きるかなんてカッコつけてるのでもナイ。やることがあるならやってから死ぬってのでもイイ。というより、やらねばならないことはナイのかと思ったんだナア。で、まあ、いろいろあって、いまだ。使い捨てでイイんだ。どう考えても足掻いても命というのは使い捨てにしか過ぎない。いつかは死ぬのだし、そのいつかは、まったく本人には、自分にはワカラナイ。この諦めから始まるものもアルってことだワサ。そう「悟った」ときは三十過ぎ(としておこう、ほんとは悟ってなどイナイから)まあ、覚悟したといっても意味は変わらない。
哲学的に自殺をした御仁の本、読んだ。ケッコ毛だらけネコ灰だらけ穴のまわりは糞だらけ、感想一つ「勝手にすればイイ」。いますぐ死ななくとも、ひとは必ず死ぬ、しかも次第に死んでいくのだ。自死を前提にしても同じことじゃナイか。時間のschemaがチガウだけじゃないか、ゆっくり自殺(自死)するでイイのだ。出来るだけ気がすむように生きておさらばでイイじゃないか。芥川龍之介は『侏儒の言葉』でたしか「神に出来ないことは自殺だ」とかいってたが、死ねないことは死ぬことより辛い(どっちも経験ナイけど)。従って天国というのは永遠という時間の地獄だ(行ったことナイけど、覗いてみるくらいはしたいと思うけど)。
ただ、いま、思うのは、「正常」「普通」「健常」とはナンだ。「異常」「病的」とはナンだ。基準をいっているのではナイのよ。根拠(エビデンス)を示せといっているのだ。精神科医とやらに。いや、せめて「私とは何」という前に、問うてみよ、どなたさんも。

私たちがあのひと、という特定のひとを指して「オカシイ」というとき、「いつもと」という前提のような呪文が付く。「いつもとチガウ」のだ、から「オカシイ」。この「いつも」というのは、普段の日常生活をいう。圧倒的に固有なもの、個人史だ。「金では解決のつかないこともある」というのは金持ちのいうことで、貧乏人の私たちは、一度でいいからそんなことをいってみたいと思っている。私たちのいいぶんはいつも「銭さへあれば解決出来るのになあ」だからだ。「いつも」はそんな日常生活をいう。ところで、金持ちと貧乏人は金銭の使い方はおそらくかなりの格差を持っているにチガイナイ。そうすると、日常的に銭のあるヤツは健常、正常で(あるいは異常で)、貧乏人は異常(あるいは正常)だとする尺度のようなもの(漠然とした思考)を以て、「異常」と「正常」を通俗的に私たちは分けてしまっているところがある。キリスト教も「貧しきものは幸いだ」とはいってみたが、後に「貧しき者にも善人と悪人がいる」に教義を変えた時代があったらしい。もちろん、こんなものに根拠はナイ。単なる日常生活のチガイでしかナイからだ。では、もうひとつ。固有でナイ普遍的なものではどうなる。いわゆる、外因性、内因性、心因性と、脳生理学、神経生理学、精神医療で用いられるカテゴライズだ。精神医療、精神科医の三種の神器だ。

エビリファイへの考察⑥改訂

「異常」というコトバは、きわめて通俗的に用いられているはずだ。放送コードなどでは「おまえキチガイか」と笑い話にでもいえないが、「おまえ、ちょっと異常やで」は頻繁に使われる。かつて『明日のジョー』という人気ボクシング漫画があったが(私は小山ゆうさんの『がんばれ元気』のほうが好きやねんけど)、昨今は「明日のイジョー」という時代になってしまった。(そういえば「ほとんど病気」てなコトバもむかし、あったけど、あれもコードにひっかかるのかな)。「病気」は医療用語では「疾病」といわれる。ただ、「病的」というのは「病態」や「容態」とはややチガッタnuanceで、日常的にも使われる。
これもまた、通俗的に無限定に使われている。このようなものと似たような使われ方をしているものに演劇における「身体」がある。もちろん、演技もそうだし、演技力というものもそうだ。演ずることと演技とはチガウものだし、演技力は演技の実力をいうのではナイ。「精神的」と「心的」もチガウ。簡単にチガイをいうなら、「心的」とは、身体から観た自然と、自然から観た自然の「疎外」をいっている。何のこっちゃでイイのだが、つまりはココロの身体性をいっていると大概思ってて、そう遠くナイ。
だから、私たちは、「分泌物やらレセプターや、フロイトの無意識領域の双方にもけして還元出来ないものが、ひとの身体性だということだ。そうして、前述の二種の精神病理は、その身体性が背負ったものだ」と、こういいたいのだが、それにおいて演劇の身体性を付加しながら考えていくことは、けしてマイナスにはならないような気がする。
このアトは、私のエビリファイ副作用の実体験などを通して、「病的」と「異常」が如何にチガウかを少々述べてみたい。

エビリファイへの考察⑤改訂

ところで、ニュートン力学を用いるにせよ、蓋然性(~のはずだ)のschema(スキーマ・枠組み)を体系的に(統計的に)積み重ねていくにせよ、常々、私は妙な欲求にとらわれてきた。というのも、ニーチェの著作『このひとをみよ』のタイトルを背表紙で観たときからだ。私は一度「健常者」というひとが観たいと思う。あるひとを壇上に立たせて「このひとこそが健常者です」というイベントでも、バラエティ番組でもやってくれないかなと、そういう欲求、要求だ。たとえば、何故、テレビ番組のバラエティで『ザ・健常者ショー』というのをやってみせてくんないのかという、そんなふうな「イライラ」だ。変なひと、変な場所というものを取り上げた番組はくさる程ある。では、このひとこそ、正常だ、キチガイではナイというひとを取り上げる番組は何故ナイのか。だって、みんな殆ど健常者だから、というのはオオマチガイだ。統合失調者の割合は100人に一人だから、私たち小劇場演劇の一回の公演での入場者のうち、およそ一人は統合失調症の方がいらっしゃるし、鬱病になると、共同通信配信によると「世界保健機関(WHO)は9日、世界で少なくとも3億5千万人が精神疾患であるうつ病の患者とみられるとの統計を発表した。毎年100万人近くの自殺者のうち、うつ病患者の占める割合は半数を超えるとみられている。(2011年)。これに対して日本では、「日本の厚生労働省によると、1996年には国内で43万3千人だったうつ病など気分障害の患者数は2008年に104万1千人に増加」。だから、現時点でも100万程度の罹患者はいるといってイイとして、日本の人口が2011年において約130億人だから、1300人に一人に罹患者が、、、、というのは早計で、乳幼児、幼童少年、在日外人をここから若干マイナスすると、けっきょく、110人に一人で、統合失調症罹患者とほぼ同じということになる。で、これはまだ早計で、早慶戦ならエンタツ・アチャコなのだが(古、フルッ、誰も知らんワ)では、引き算した残りの人々はみな健常者なのかというと、ほんとうにそうなのかというひとがいるわいるわ、「あいつヤバイんじゃネエ」「あのひと、ちょっと変よネ」が数多いるじゃん。たとえば、「私は面倒に巻き込まれたくナイから、ありとあらゆる保険にも入っているし、危ない仕事はしないし、サプリメントだって10種類は飲んでるし、ケンカはしないし、口論、議論もしないし、与えられた仕事以上の余計なことは失敗すると事だからやらないし、賭け事、酒、女もやらない」で百歳まで生きようとしているヤツって「変じゃないの」。私は、あるトレーニングジムに通っていたとき、そこで、85歳の爺様と知り合ったが、ともかくいままで風邪一つひいたこともなく、戦争時は大陸で戦ったが、怪我程度しかしなかった。その代わり2~300人は殺したなあ、というのを出会うたびに自慢してた。これ、健常者かヨ。ヒロシマ、ナガサキ、に原爆投下を命じたトルーマンは正常で、何もやる気が無くなって自殺した鬱病患者が異常だというのは、次元がチガウことなのだから、イイのか。
与太はこれくらいにして、真面目に問うが、異常とはナニカ、病的とはナニカ、健常者とは誰か。

エビリファイへの考察④改訂

ところで、そもそも「副作用」というのはナンなのだ。もし主作用がその疾病を治癒して修復するものならば、そうではナイものという単純な規定が与えられる。ここで、副作用の欄に「ちょっとおかしくなる」と書かれていたらどうなるだろう。おかしいは「奇怪しい」のほうで「可笑しい」のほうではナイのは断るまでもナイが、たとえば、演出者が役者の演技に対して、「もうちょっと~おかしい~ほうがいいな」てな注文を付けたとする。これは主作用(基本的な演技)に対して副作用(それを崩した演技)を求めているのだと役者はたいてい理解する。では「ちょっと、おかしい」とはナンだ。これを私たちは日常で「病的」とか「異常」とかいう代わりに用いている。向精神薬の副作用が「ちょっとおかしくなる」とかかれている場合(すべての副作用を帰納すれば、これに尽きるのだが)、それが病的、もしくは異常として発現していることになる。
ひとは病気でなくとも「イライラする」ことは多々ある。私なんざ、今日の診察で副作用のことを話したら「イライラしますか」と質された。(たしかにその質問にイライラはしたが)。「イライラもそわそわも、落ち着きがないも、ふだんあるものですから、本来ならば~「妙に」~と加文して~みょうに、奇妙に、イライラしますか~と訊くのが正しいのでは」と、応じたら、ドクターは質問をやめてしまった。変なのは私か、ドクターか。
さてと、私の嫁は「あんたはちょっとおかしい」といわれることがあるそうだ。私もよくいわれるから、つまり、私たちは似たもの(どうし・夫婦)という感触になる。で、と、再度question、「ちょっとおかしい」とは何をして「おかしい」のか。「おかしくナイこと」との線引きの基準があるのだろうか。
ここで、先に「だいぶおかしい」が疾病だということになるということに留意しておく。これは治療を要する。疾病だもん。このときその疾病に対する治療のガイドラインが作成される。では、その線引きはというと、現在の医学は臨床医学だから、検査値の基準から割り出される。では、その検査値はどうやって決めるのか。人間は自然体だというところに還元し、そうであるならば、この程度の範囲内が正常値だという、ある「蓋然性」を基にしている。逆にいうなら「蓋然性」にしか過ぎない。だからたいていの病気疾病はこの蓋然性(つまり~~のはずだ)で決まる。
それでは「ちょっとおかしい」もそうだろうか。「ちょっとおかしい」は「異常」だろうか「病的」だろうか。そもそも、異常と病的の差異はナンナンダ、ナンマンダブ。単なる雰囲気のいい換えか。では、演出者が役者に「そこは異常というより病的なほうがいいな」とmissionしたら、役者はどうする。無論、どうにかする。なによりまず演出者にこういうだろう「あなたの考える異常と病的のチガイって何ですか」。
私たちはこういったものにエビデンス(根拠)を持っておきたいと思う。基準というよりも根拠だ。そこで、また始まったぞの誹りを覚悟で、ここでもニュートン力学を持ち出すことにする。
まず、私たちは何故、他者(対象)を「ちょっとおかしく」思うことが出来るのか。自分を(その正常さらしさ)を基準にしているから他ならない。その自分に備わっているものが、他者(対象)に対して余剰であるか、欠落、喪失してあるか、という了解を以て、他者(対象)を計測するところからこの作業は始まる。(多いか少ないか、だわな、簡単にいっちまえば)
ここでも微分を使う。それからある数列(これは極限でもイイ)。極限でいくんなら、つまり、自身と他者を無限のほうに近づく数列だと考えればイイ。ここで自身を無限遠点に置くとする。他者と自身が同一化しているところを無限近点とする。そうすると、自身の無限遠点と、他者と同一化している無限近点の中間には「余剰であるか、欠落、喪失してあるか」という点がみつかる。自身の無限遠点の近傍成分をdyとして、無限近点の中間の近傍成分をdxとして微分係数dy/dxが求められる。「ちょっとおかしい」というのは、この係数(比率)からの「印象」でしかナイということになる。

エビリファイへの考察③改訂

「意識」というコトバはあるときは哲学などで慎重に扱われ、あるときは、医療現場でわりに安易に用いられている(目が覚めているか眠っているか程度に)。この混乱と錯綜が輪をかけて、「意識がはっきりとしない」というコトバがはっきりしないということになる。もちろん、このばあいの「意識」は、哲学用語の意識が用いられているワケではナイので、単に主観的になっているか客観的になっているかを判別出来る機能としての、事象としての意識だ。つまり「自分のことが自覚出来ますか」「自分を自覚する意識がハッキリしていますか」なのだ。
ところで、この「意識」を「愛」というコトバに置き換えてみたらどうなるだろう。どっちも掌に乗せて差し出すことの出来ない漠然としたことばだが、心的には強いエネルギーは持っているはずだ。すると、Eという向精神薬の副作用として「愛がはっきりしない」と書き換えられるのだが、これをわかりやすく動詞を導入して「愛していることがはっきりしない」「愛されていることがはっきりしない」とすれば、これは副作用のコトバとして通用するだろうか。私は通用すると思う。通用しないほうがどうかしている。精神医学の先駆者(pioneer)であるフロイトがさかんに用いたのは「愛」ではなかったか。
もし、二つの精神疾患の罹患者が「死」を考えるとき(双極性障害では希死念慮がみられるのは知られている)、そこには愛せなくなった自己が存在することになる。フロイトの著作『不安の問題』には、ナルチシズムの対象の自身が、憎悪に転換することについて書かれた箇所がみうけられる。難しいコトバを使わずにいっちゃえば、「オレ、もう自分のことが愛せなくなった。もう、死の」だ。じゃあ、死ぬか。誰が殺すのだ。自己(私・自分)にチガイナイ。ところが、その自己は愛せなくなった、愛されなくなった自己のはずだ。「そんなのに殺されちゃうのぉ。ヤだなあ」憎んでいるヤツに殺られるのはヤだ。そこで、死なない。ここには循環がみられる。しかし、この循環が断ち切られたらどうなるだろう。さきほどのように、「意識がはっきりしない」というのは、主語を付け足すと、この循環、「循環する意識がはっきりしない」とハッキリすんだろ。どや。つまり、主観と客観が循環せずに、どちらか一方が増大して一方を凌駕してしまうこと、この状態が、エビリファイの重篤な副作用として発現するのだ。じゃあ、何故に。もちろん、本作用がそのようになるように作用しているからだ。つまり統合失調症においては、主観と客観は混合して循環する。
余計なことかも知れないが、たとえば、このように病態、疾病をコトバから捉えていこうとする営為に対して、苦笑いやらせせら笑いやら、嘲笑している輩も多いとは、被害者妄想としてではなく勘定に入っている。「精神、神経疾患はコトバの問題ではなく脳の分泌物とレセプターに対する外力と内力の問題だよ、きみ」てなもんだな、たぶん。けどな、あの網野史観で有名な、網野善彦さんがやったように、歴史上のコトバの使用を洗い出すという作業はタイセツなことで、網野史観はそこがチガウと私は考えている。

エビリファイへの考察②改訂

私は薬学にも、精神病理学にも、脳科学にも専門的ではなく、殆ど無知だが、幸か不幸か演劇という特殊な領域から、この世界の事象、現象をすべて演繹することが出来るということを学んだ(つもりにはなっている)。統合失調症にせよ、双極性障害にせよ、たいていのことは演劇にカテゴライズして考察することも可能なはずだ。
たとえば、統合失調症も双極性障害も、「ひとがひと」と「関係」して「了解」していく道程の中にみいだされる病態に他ならない。これらは演劇にとっては演劇とはなんぞヤというときの常識的な設問だし、演劇が包摂しているものだ。何故ならば、演劇とは、まさにそういうひととひととの関係と了解を「劇」にしたものに過ぎないからだ。ここで、演劇は虚構であり、病態は現実だという命題は意味をなさない。(この「現実と虚構」とについては、今秋上梓予定の『恋愛的演劇論』で章一つとりあげてあるので、ここでは詳細を述べないが、この世界には虚構があったり現実があったりするということはナイとだけ記しておく)。
私たちはいま、方便として、統合失調症と双極性障害を関数として考え、その両者を微分していくことにする。図を考えれば、縦軸yに統合失調症を、横軸xに双極性障害をとり、その成分をdy/dxとすれば、ここに係数が求められることになる。係数、つまり比率だ。ひょいとコトバをもどせば、エビリファイの統合失調症に対する効用と双極性障害に対する効用の比率を図で観ることが出来る。そうしていくと、この比率によって、統合失調症に多く効果のある部分は、双極性障害には副作用として生じていることがワカル。コトバを換えていえば、エビリファイの双極性障害に現れる副作用というのは、統合失調症にとっては本作用だということになる。もっと率直、端的にいってしまえば、双極性障害の治療効果は、統合失調症における副作用の活用なのだ。従って、問題はその係数の値が、固有の患者に対してどのように作用(副作用)するかということになる。
この係数を「コトバ」であらわすと、副作用においては「イライラ感・そわそわ感」などが軽症で、重篤になると「意識がはっきりしない」「こわばり」というコトバが出現して来るが、この他に私自身が重要なkey wordと考えるのは「じっとしていられない」「かたまってしまう」という相反する副作用だ。副作用に紡ぎだされたコトバたちを検証していくと、「イライラ感・そわそわ感」というのは、極めてよく似ている発現で、演出者が役者に「そこはイライラじゃなくそわそわして、」と演技の指示を与えた場合に、役者は何をするかというと、「落ち着かない」という演技をしてみせるしかナイ。そうして、この「落ち着きがなくなる」というのも副作用に含まれる。
ハッキリいってしまえば、副作用として書かれたものは概ね「述語」でしかナイ。主語はどこにあるのだ、と、副作用の欄を読んでるこっちがイライラする。これはこのようにも半畳入れられる。たとえば重篤である副作用のうち「意識がはっきりしない」のは誰かということだ。もちろん自分の意識だから自分に決まっているのだが、では「意識がはっきりしない」という「意識」がはっきりしていなければ、この識知は不可能になり、もしそういう意識が働いているのが可能であれば、そこには当初の意識状態に対しての矛盾が生じていることになる。
このようなことが何故、起きるのかというと、おそらく主観と客観の問題が、エビリファイの主効果と副作用において、病態である統合失調症と双極性障害におけるベクトルが逆に変容していることを示しているとしかいいようがナイ。

エビリファイへの考察①改訂

エビリファイへの考察①改訂
2012年、双極性障害(躁鬱病)の第三世代治療薬としてエビリファイという向精神薬が承認された。(薬名アリピプラゾール)開発は日本大塚製薬。これは明らかに双極性障害罹患者にとっては朗報だった。海外の薬品ではナイから、特許料なんかが上積みされない分、ふつうの新薬よりたぶん安価だからだ。ところで、まだ、承認されて2年を経ないこの向精神薬に対して「だった」と過去形を用いるのは、おそらくこのクスリは、かのリタリンのように、5年を待たずに姿を消すだろうという予感がするからだ。この薬品はレセプター(体内にある外からの刺激の受け皿のようなもので、ある刺激に対してどういう作用をするかという脳内機能だと思ってそう、間違ってはいないと思う。つまり「刺激」に対する「反応」の場かな。だから、これは力学として捉えれば「運動-作用」と置き換えることが出来る)としての脳内のドパミン作動性ニューロンが形成する中脳辺縁系および中脳皮質系に作用し(この二つの系がレセプター)、ドパミン刺激を調節する(つまり刺激と反応がある)。またドパミン(私たちがよく使うのはドーパミンという呼称)のパーシャルアゴニスト(partial agonist。partialとは「一部分の」という意味。つまり、パーシャルアゴニストは「少しだけアゴニストとしての作用がある薬」の総称。アゴニストは生体反応を100%引き出す作用)としての作用を有する。パーシャルアゴニストとして作用し、前シナプスのドパミン自己調節受容体(レセプター)にも結合し、前シナプスにおいてドパミン放出量を調節する作用を有する。このためドパミンシステムスタビライザー(DSS)ともいわれる。なんだかんだといって、要するにそういう作用のクスリなの。
薬効としては「ドパミンが不足している前頭前皮質ではこれを増量させて感情表出能力や無為・自閉などの陰性症状を改善し、またドパミンが過剰に作用している中脳辺縁系ではこれを減少させて幻覚、妄想などの陽性症状を改善する。また、適度なドパミン活性があるために側座核に作用することで快楽消失などを伴わず、統合失調症患者の物質濫用を防ぐことができる」(ウィキペディアより)
ここで留意することは、もともとこのクスリは統合失調症の治療薬の「作用」として認可されているということで、双極性障害治癒薬としてはそれに数年おくれて承認されている。で、何故だか知らないが(だいたいワカルけど)精神科、神経科のドクターはそれをいわないんだナ。
ところで「作用」には「反作用」があることを、薬学では「副作用」と称する。この「副作用」という表現はあまり妥当な言語表現ではナイと常々私思ってましたワ。何故なら、これは大統領にたいする副大統領というナンバー2という関係ではナイから。敢えていうなら「反作用」の言い換えであるに過ぎない。
いまも店頭にあるはずだが、市販薬における睡眠導入作用の、ある薬品は、単なる抗ヒスタミン剤なのだが、これには良心的な薬剤師は憂慮した。つまり抗ヒスタミンの副作用である眠気というものを利用しただけだからだ。
さらにやっかいなことに、この「主作用」「副作用」は、「物質」と「反物質」のように互いに打ち消しあうという類のものではナイ。つまり、どちらも出現(発現という)するのだ。従って主作用に付随して出現する作用を副作用というのは言語仕様の上でも正しいとはいえない。どっちも同様の「作用」だからだ。
この第三世代新薬エビリファイ(まるでエビフリャーのようだが)についてすこし、考察をすすめたい。その服用を勧められ、現にそれを服用している双極性障害者の私としてもそうだし、普遍的な興味と疑義もあるからだ。

2013年3月12日 (火)

労働と労働力

前回スタッフと演出者のことについて書いたので、これを固有に置き換えてみる。てなことをいうとなんのことになるが、要するに「あんたはどうなんだ」ということを難しくいっているに過ぎない。けれど、こういう難しくいわれていることにも慣れてもらわないと私のブログは読めない。物事をより簡単、共用、共通規範にして用いることだけがcommunicationではナイ。
「労働」と「労働力」はチガウのだ。私が欲しいのは後者のほうだ。もちろん同様に「演技」と「演技力」もチガウ。これは簡単に(いうつもりなんだけど)いえば、労働が価値を持ったものを労働力といい、演技が価値を持ったものを演技力という。
もっと簡単に例をいう。引越しをする、そうするとベテランの社員にアルバイトくんがついて来る。引越しだから物を運ぶ。冷蔵庫から置き時計、布団にパソコンまで。ベテランには労働力があるとしよう。すると、バイトくんがやってるのは労働だということになるとしよう。ベテランは冷蔵庫とパソコンの運び方がチガウことや、如何にして、それを運べばいいのかを身につけている。バイトくんは、まあ、適当に持ち運びますな。このチガイだ。
これを貨幣(賃金)換算するともっとワカリヤスイ。ベテランは日給で3万円。バイトくんは8千円。と、こういうことだ。ワカランかな。
舞台がある。装置(ミザンテーヌ)を創る。釘一本の打ち方のチガイが舞台創りのチガイになって現れる。これが労働と労働力の差だ。
では、ベテランは釘一本を打つのに如何にして労働力を手にいれたか。これも簡単なことだ。時間と銭を費やしている。労働で得た賃金を釘一本打つための「力」をつけるのに換える。そのためにラーメンよりは肉を食って、筋肉をつける。チガウ舞台を観に行く。観劇料が要る。その舞台を批評するには、それくらいの銭を使わねばならない。何のための銭か。自ら観た他人の舞台を批評することによって、それを自身の「資本」とするのだ。本来「資本」と称される剰余価値は、搾取の結果ではナイ。搾取の結果ではナイものを搾取の結果としているのはマチガイだということを書いたのがマルクスの『資本論』で、マルクスはここにおいて、資本家は悪人だなどとは微塵も書いていない。また、下部構造、つまり経済が上部構造を創るなどともいってはいない。例えとしていったことはあるとしてだが。下部構造が労働であるのなら、上部構造は労働力だといっただけだ。私の読み方が正しければそうなる。たぶん、正しい。
しかし、支配(権力)はこのシステムを塗り替える。もともと支配とは「配ることを支える」ということで、分配をつかさどることだった。
権力はegoismの延長、拡張に該る。世界のあちこちで戦闘がある。現政権を倒すのにゲリラ勢力が闘っているという図がある。彼らは民衆に自由をなどというのが通例だが、けっきょくは権力が欲しいだけで、これが入れ代わっても、権力の首のすげ替えにしかならない。
それとはチガウ意味で演出は権力だ。権力でなければならない理由がある。労働力はその権力に隷属しない。労働は隷属する。労働力は演出という権力を「支配」する。釘一本を打つことによって。
私の望むスタッフは、労働力のある「ひと」であることを言明しておく。難しかったか。

2013年3月11日 (月)

善人とは誰か、悪人とは何か

いい本、創って、やりたいことやって、早くgood byeといきたいもんだ。good byeはgoodなんだからgoodなんだろう。とはいえ、そう簡単にbye-byeさせてくれないから私はいつも南部麒六の満身創痍癖を味わうことになる。誰が悪いということでもナイ。といって誰が正しいとも思えない。では、何が善で何が悪なのか、コレステロールじゃあるまいし、そう単純なものではナイ。要するにこれを「関係」が生じさせる作用だとする。関係は「了解」と対応して動くと考えると、それは運動のようなものだ。だから作用が生ずるのはアタリマエなのだが、この作用、いわゆる「結果の轍」というのが、疎ましい。
吉本さんの「関係の絶対性」は『マチウ書試論』でキリスト教からmotivationを得ているけれど、のちのちそれは「親鸞」の思想に辿り着く。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」と来るのだ。ここでは、明確ではナイけれど、というより、あたかも不明確を前提としているかのように善人と悪人とが分けられて、要するに阿弥陀仏の本願によってどっちも往生する。弥陀の本願は全ての衆生が往生するまでは自らも仏にならないということだ。だから阿弥陀仏が存在するというのは矛盾になる。だから阿弥陀仏にすがって他力本願で往生する、というのも矛盾になる。つまり他力の大将の他力はまったく運動していない。ニュートン力学においての運動方程式(第二法則)F(力)=m(質量)×a(加速度)だが、このF(他力)が働いていないのだ。それは作用(世間)をみればワカル。これがほんまの「往生しまっせだ」。
善と悪というのは、およそその作用のさらに「結果」であって、善人がいて善をするのではなく、悪人がいて悪をするのではナイ。そんなものはマーベル・コミックス(Marvel Comics)の世界にしかナイ、マンガでっせ。
とはいえ「関係の絶対性」というのはニュートン力学でしか通用せず、量子力学にまで行き着くと、「関係の偶然性」「関係の確率性」になってしまう。量子力学においては、この「関係の絶対性」というヘーゲルやマルクスにおける弁証法的なaufhebenは、あっさりきれいにすっかり消えてなくなる。つまり「絶対」というコトバが消滅するからだ。量子力学というと、何か自然に対する特殊な観方のように思えるが、そうではナイ。自然それ自体がそうなのだ。で、あるならば、世間の様態は量子力学のモデルに近い。
私の理屈では「夢(虚構)」と「現実」はべつものではナイ。相平面と複素数平面という平面に関数として存在する。(これはこの晩秋上梓される予定の『恋愛的演劇論』を読んでもらえばイイ)。従って「夢を現実のものにしよう」という言説などは、まったく意味をなさない。ある舞台創造をして、スタッフが実現させる夢とは、演出家のegoではナイ。もし、そう考えるならば、スタッフは「献身」か「犠牲」のものとなる。フーコー流にいうなれば、権力と服従の問題でしかナイ。舞台にある夢(虚構)は倫理的には観客の欲望だ。観客の欲望というのはいつも「極限」だから、大きさと向きは確かに在るのだが、行き着くところがナイ。献身でも犠牲でもナイ、「食う」ためでイイではないか。それもまた「極限」だ。いま「食えない」が「食う」ために大きさと向きは確かに在るのだから。
私はいま二本の戯曲をパラレルに創作しているが、何れもテーマ(のようなものがあるとすればだけど)は、冷酷な善人と温和な悪人の、固有の時間を空間でベクトル変容させた内容になっている。ベクトル変容なんてコトバに驚いてちゃいけねえ。要するに、ベクトルなんだから、その大きさと向きを変容させてるってことだ。こういうコトバを私はハッタリで使っているワケではナイ。ただワカリヤスイのだ。(私にとってはだけど)。
でと、結語。私はいわゆる悪人か、善人か。どんなに私が善かれと思っても、関係は絶対性であり「偶然性」であり「確率性」だ。だから、結果、いつもマルキ・ド・サドとアルベール・カミュが握手してハグハグしているようなもんになる。
私は親鸞より一休(宗純)が好きだなあ。だって、一休の反抗はただごとじゃナイもんな。親鸞には愛は感じないが、一休にだけは、私は宗教者としても、人間としても強い愛を感じること出来る。あんなにひとが愛せたらなあ。ただ、悔しまぎれかも知れないが、いわせてもらえば「愛を他人まかせにするな」。愛は他力ではナイのだ。かといって自力でも成り立たぬ。愛に翼などはないぞ。翼を下さいなんてあまえていてはイケナイ。ともかく一緒に歩くことだ。愛を捜さんとすれば、文字通り歩くことだ。のろけていうのではナイが、歩いている時間はいまの嫁さんとが、最も多い。

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