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2013年2月22日 (金)

『あの、屋上のひと』自画自賛

私はワガママなので、昨今は私が「泣ける」芝居しか書かないことにしている。私が泣ける芝居というのは、プペライベート(私劇)でもあるので、そのために、他者である観客には何のことかワカランこともあるが、この『あの、屋上のひと』を書いたモチーフは、若干の手直しをしたものの、シンちゃんと、定食屋の娘の二人の場面の、田辺文美の演技が観たかったからだ。そんなことをいうと、他の役者に失礼かも知れないが、そんなことはまったくナイ。ゲストで、田辺の相手役をした、スクイーズのヒート猛は、ともかくも田辺の演技に狂わされることなく、自身の演技を死守して、かつ、そうすることによって田辺の演技の妨げにならぬように、そのスタンスを出来る限りの範囲で保っている。もし、それが意識的に出来ていたのなら、ヒート猛を賞賛したい。
小林正和の演出は、劇場がビルの最上階にあることをミザンセーヌに用いた、理知的な技で、これは必見の価値がある。私などにはマネ出来ぬどころか、思いつきすら出来なかったことだ。
金原祐三子、中島由紀子のコンビネーション・プレイは、いつもながら息のあったみごとなものだが、私の戯曲の特徴である、ラストシーンのメッセージ・せりふのインパクトは、昨今の時事的なインドの女性差別のニュースも重なって、いっそうのリアリティを感じさせた。lyricalに終わることなく、あるrevolution announce となって、その訴えは、全世界の虐げられた女性に届いたようにさへ感じられた。大袈裟だが、ほんとうのところだ。
たなかちさ、は、このあいだまで、私と連れ添って生きてきた女性だが、ごくふつうに女優としての注文を幾つか提示して、それを女優として正確に演じてみせた。その心境には敢えて立ち入らない。彼女が冒頭に歌う子守唄は、私の作詞作曲の歌だが、彼女とのあいだには子供はないので、どのようにとられても構わない。私が聞きたいように、歌ってくれたことに、ただただ感謝するのみだ。
火田詮子が独り、舞台を背負って立つ、歌入り哲学講義は、それだけで、彼女の独り芝居を観る価値がある。彼女だけは、私の演劇渡世を知り抜いているのだ。
おそらく私は、あまり愉快な顔をしておらず、不機嫌そうな、気難しい顔つきで楽屋を歩き回っていたにチガイナイが、よくもまあ、こんなロクデモナイ劇作家についてきてくれているなあと、何もコドバがナイのだ。
よく出来た、イイ芝居、私好みの舞台だった。

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