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2013年2月 5日 (火)

愛と円とベクトルと②

私たちは、両者の愛のチガイを語り合ったことがある。正確にいえば、彼女から私が聞かされたのだが、彼女は絨毯に円を指で描き、「これがあなたに対する私の愛。なんでも包もうと一所懸命。でも、それがstressになって、逆に私がしんどくなり、そのことによってあなたを苦しめることにもなる。さらにそれが私をつらくさせる」と、こういうことは、別に私たちに特異なことではナイ。対であるひとびとには常につきまとう幻想のようなものだ。ただ、ふつうの対たちはこういうことあまり語り合わないらしい。つまりどっちかが我慢(これを大人になるというらしい、が)していることになる。ところで、彼女にいわせれば、私が彼女に示す愛というのは直線だ。いっぱい、何本もある直線だ。直線だから円のようには包まない。何本あっても、隙間がその数だけ出来る。私はこの教示になるほどと首肯するしかナイ。では、愛の在り方がチガウから、もうお終いで別れてしまえばいいのかというと、私も彼女もまったくそんなふうには結論づけない。そんな結論をみつけるために話し合っているのではナイ。私にしてみれば、その在り方に確認が出来ればイイ。私は「円」と「直線」の「愛」を考える。私なりに懸命にその感性を論理づけようとする。
まず、私の「直線」を単なる直線ではなく、「ベクトル」だというふうに置き直す。ベクトルは実に活用が効く。直線をベクトルにしたことで、私の愛は「方向」と「量」を持ったことになる。さらにこのベクトルをシュレディンガーの波動関数における「状態ベクトル」だと格上げする。状態ベクトルというのは、ベクトルの重ね合わせのことだ。重ね合わせというのは、異種のベクトルを重ねるということだ。これは波動関数だから「関数」だ。つまり縦軸と横軸による平面に座標として描ける。と、ともに曲線と接点を持つ接線とすることが出来る。円は曲線だ。従って、彼女の愛が円であるのならば、私の直線は、状態ベクトルとして、さまざまに接点を持つ接線として触れることが出来る。この関数を導関数に変化させていけば、「加速度」をもたせることも出来る。つまり、彼女の愛と私のそれとは離散しているのではナイ。無数に接触している(させる)ことが可能だということだ。
次ぎに彼女の円を三角関数でつくられる円だと置き直す。ここでも縦軸と横軸の平面がつくられる。絶対値は変化しないが、偏角(sineθ)による縦軸と横軸による平面上の座標(α・β)は、偏角の大きさによって変わる。絶対値をどういう数値(大きさ)にとっても自由なので、円の大きさは好きなだけということになる。この座標(α・β)に接線としての状態ベクトルを引けば、そこが、愛の接点ということになる。縦軸と横軸の中に出来る△(a・b・c)、この場合の角aが偏角sineθだから、その大きさの比によって、b-cが変わる。このbは横軸に在り、cは座標(α・β)だ。状態ベクトルは重ね合わせだから、(a-b)に重ね合わせることも出来る。つまり、接線として存在出来、三角関数による円の中のベクトルとしても存在することが可能になる。
ひとの思考や行動もブラウン運動している、と定義すれば、常軌などは自己防衛(egoism)の手段以外に意味など持たない。この時代、この世間で、無常は悲観的な概念ではなくなったと私は感じている。虚無を生ききるには無常はparadoxな志向性として有効な思想だ。木に竹を接いだような締めくくりになったが、直線と円はコヒーレンス(自己組織化)しながら、意外に密接に関係しあっているということだ。こんなacademicでintelligenceなことは性に合わないので、卑俗にこう結んでもイイ。あばずれとろくでなしでも、一緒に食うことスルことは愉しいのだ。

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