愛と円とベクトルと①
ここに書かれていることが、面倒くさく難しいと思われる読者に対しては、べつだん読むことを勧めたりはしない。私は、演劇の理論に数学や物理学(量子力学を含めて)などを用いることが多いが、そんなものはさほど難しい概念ではナイ。カテゴリズムとして、ただ、高校で習う程度の数学の「概念」を、私にワカル限りで応用しているに過ぎない。だから、ゆっくりと「考えながら」追っていってもらえば、難儀なことなどひとつも提示してはいないはずだ。これは、簡単にいうならば、「鶴亀算」より「連立方程式」のほうが楽で簡単だと述べているに過ぎない。
論理というものについていうならば、少なくとも「物書き」を生業としているものとしては、それは「感性」として表現出来なければならないし、逆に感性は「論理」としてコトバに変換出来なければならない、と願っているし、これをさらにいうと、「いいたいことがコトバになるとは限らない」、というよりも「いいたいことはなかなかコトバにならない」「コトバとしていったことがいいたかったことではナイ」というコトバの持つ宿命に対するparadoxな反抗だ。昨今流行りのアスペルガー症候群への疑義としてこれを述べるならば、その最たるは、その状態(症状?)に対してコミュニケーションにおける「発語」しか扱っていないということだ。これはあたかも、ウィトゲンシュタイン言語学の成れの果てというありさまではないかとさへ思える。私が演劇において、ウィトゲンシュタイン言語学について否定的なのは「言語限界がその人間の世界限界」だとする「語り得ぬものには沈黙を」という、ウィトゲンシュタインのすまし悟った「どうだうまいこというだろう」という気取りが気に入らないのだし、また「科学哲学」においては、そのbackupとして、ウィトゲンシュタイン言語学を有している(信仰している)輩の多数をしめることに嫌悪するからに他ならない。私たち、少なくとも演劇(戯曲)にたずさわるものは、演劇の言語においては、まず「沈黙」から出発しなければならないはずだ。「沈黙」というのはいい方を変えれば「コトバにならない(出来ない)表出」ということになる。これはどういうことかと、もう一歩突っ込んでいってしまえば、近頃さかんに取り沙汰されているcommunicationとやらの常識を疑ってかからねば、演劇(戯曲)は始まんねえぞ、ということだ。(苦言とやらを呈すれば、ここんところの演劇は、「気持ち」とやらが伝えられるだけの都合のイイcommunicationだけのコトバだけを扱ってやがるからな)。「沈黙=コトバにならない(出来ない)表出」をコトバにするという矛盾に対峙していかなければ、新しい戯曲は成らない。

