「虚構に過ぎない」は最低の命題だ
あのね、何度か書いたと思うけど、「虚構」というのは「現実」がナイと生じないのネ。で、「現実」というものが在るのかというと、在るとしかいえないんだけど、生じるのは常に虚構なの。ナニいってるかワカンナイでしょ。これをなんとか、科学的に証明、論説しようとしてんのが、いまの理論的分野の仕事なの。「愛と円とベクトルと」てのは、彼女にいわせると「インテリの書いたのろけ、ね」になるんだけど、私は「大真面目にふざける」のが好きなの。そういう一文なのよ。私の芝居なんて、みんなそうだからね。
高校生のときね、まあ、無神論者とか虚無主義でもなかったんたけど、神さん、いてはるようにも思えんかったので、折衷案、妥協案を考えたことがある。つまり、「この世界は神が創った、でええことにしょう。つまり演劇でいうと神さんは劇作家や。しかし、オレたちは役者や。中には演出の出来るもんもおるやろけど、まあ、役者でええわ。けっこう役者はオモシロイしな」というふうにです。
つまり、ね、「創られた」のなら創られた私たちは作品やし、作品である以上「虚構」ということでしょ。これは、宗教的応答。科学的ではナイ。しかし、まあ、楽なことは楽やなあ。
タイトルの「虚構にしか過ぎない」は、否定的、悲観的な命題です。「虚構ですが、だから」。この「だから」のアトには無数のコトバが存在する。疑問符にしてもよし、感嘆詞にしてもよし、反抗的になってもよし、諦観してもよし、しかし、「過ぎない」はアカンなあ。最も嫌うなあ。
吉本(隆明)さんは、男女の関係と了解を『対幻想』とおっしゃった。私は、その真理は認める上で敢えてそれを「対の虚構」と呼んでもイイように論理を構築したいのよ。つまりね、「幻想」なら等速直線運動でしょ。それは吉本さんが、ヘーゲルの影響を大きく受けてはるさかいにしょうがない。そこからマルクスの自然哲学やから、やはりある運動力学は持つんやけど、それゆえにフーコーの哲学にはカウンターパンチをもらったようにヘコまはったけど。しかし、ヘーゲルを(その「概念」は~である~でしかなく、それ自体の変容(状態)を捉えられない)と、批判したシェリングふうに考えると「虚構」はもう少しチガウ力学が導入出来るような気がするのよね。そういうところで演劇も考えているから『恋愛的演劇論』なワケ。
眠たくなってきたわ。こんなもん書いてると眠たくなるのもしゃあないけど。

