無料ブログはココログ

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

2013年2月24日 (日)

すべては過去形になるだろう

すべては過去形になるだろう

この北風も 待ち遠しい南風も すべては過去形になるだろう
しかし いまこのいまは 現在形であればいいのだ

きみのやさしいコトバも つつみこむやさしさも すべては過去形になるだろう
しかし いまこのときは 現在形であるのに まちがいはないのだ

感涙いまだ我を去らず かの歌 こころを慰む
一献の酒 汚れグラスに そそがれて なお美し

あの思い出も ひとびとも すべては過去形になるだろう
しかし いまこのいまは 現在形であることを 信じていいのだ

きみの去りゆく悲しい夢も ふりむいた微笑みも すべては過去形になるだろう
しかし いまこのいまは 現在形であることは ほんとうなのだ 

劇場からみな去りゆきて 影ひとつの気配もなく
窓からのひざしのみが 記憶を照らす

すべては過去形になるだろう

永遠の過去形は ひとつの未来だから

2013年2月22日 (金)

『あの、屋上のひと』自画自賛

私はワガママなので、昨今は私が「泣ける」芝居しか書かないことにしている。私が泣ける芝居というのは、プペライベート(私劇)でもあるので、そのために、他者である観客には何のことかワカランこともあるが、この『あの、屋上のひと』を書いたモチーフは、若干の手直しをしたものの、シンちゃんと、定食屋の娘の二人の場面の、田辺文美の演技が観たかったからだ。そんなことをいうと、他の役者に失礼かも知れないが、そんなことはまったくナイ。ゲストで、田辺の相手役をした、スクイーズのヒート猛は、ともかくも田辺の演技に狂わされることなく、自身の演技を死守して、かつ、そうすることによって田辺の演技の妨げにならぬように、そのスタンスを出来る限りの範囲で保っている。もし、それが意識的に出来ていたのなら、ヒート猛を賞賛したい。
小林正和の演出は、劇場がビルの最上階にあることをミザンセーヌに用いた、理知的な技で、これは必見の価値がある。私などにはマネ出来ぬどころか、思いつきすら出来なかったことだ。
金原祐三子、中島由紀子のコンビネーション・プレイは、いつもながら息のあったみごとなものだが、私の戯曲の特徴である、ラストシーンのメッセージ・せりふのインパクトは、昨今の時事的なインドの女性差別のニュースも重なって、いっそうのリアリティを感じさせた。lyricalに終わることなく、あるrevolution announce となって、その訴えは、全世界の虐げられた女性に届いたようにさへ感じられた。大袈裟だが、ほんとうのところだ。
たなかちさ、は、このあいだまで、私と連れ添って生きてきた女性だが、ごくふつうに女優としての注文を幾つか提示して、それを女優として正確に演じてみせた。その心境には敢えて立ち入らない。彼女が冒頭に歌う子守唄は、私の作詞作曲の歌だが、彼女とのあいだには子供はないので、どのようにとられても構わない。私が聞きたいように、歌ってくれたことに、ただただ感謝するのみだ。
火田詮子が独り、舞台を背負って立つ、歌入り哲学講義は、それだけで、彼女の独り芝居を観る価値がある。彼女だけは、私の演劇渡世を知り抜いているのだ。
おそらく私は、あまり愉快な顔をしておらず、不機嫌そうな、気難しい顔つきで楽屋を歩き回っていたにチガイナイが、よくもまあ、こんなロクデモナイ劇作家についてきてくれているなあと、何もコドバがナイのだ。
よく出来た、イイ芝居、私好みの舞台だった。

2013年2月16日 (土)

微分方程式と演劇の近似

前回は長文になるのをきらって本題を急いだので、/私の考えでは数学が難しいのではナイ。数学を説明しているコトバが難しいだけだ。概念はさほど難解なものではナイ/てなことをいいながら、けっきょくコトバが難しくなった。これは半可通の私の不勉強の罪というものだ。そこで今回は、私自身が「なんだ、数学だって同じこと考えてるやないか」
というものを述べて、前回の補足としてみたい。が、それがまた難しくなるということもあるので、要注意なんだけどね。では、まず、ここをおさえてもらいたい。
○「微分」と「微分方程式」はチガウ。・・・微分することと、微分方程式を解くことはチガウのだ。で、そんなものを演劇に応用するのに、数式、記号式でごちゃごちゃ計算などしているのではナイ。何度もいうようにその概念だけ、考え方だけ活用したり裏づけとして納得したりしているのだ。
微分というものは関数の曲線を部分曲線に「微」かに「分」けるのだが、これだけでは作業は終わらない。y軸とx軸の中にこの部分曲線は存在するのだが、ここからこの曲線が係わっているy軸とx軸との比を求める。この比をdy/dxと記す。これはyの成分とxの成分を表記していることになり、これを微分係数と称する。ここでy軸の成分がある自動車の走行「距離」だとしよう。そうしてx軸の成分が走行「時間」だとしよう。そうするとdy/dxは、その自動車の走行「速度」になる。どれだけの時間xで、どれだけの距離yを走ったかを対比させているのだから。さて、この関数をさらに微分する(dy/dxをxの関数としてさらに微分係数を求める)。これは、関数から関数を導くのだから導関数と称されている。そうすると自動車の「瞬間の速度」が求められることになる。さらに同様に導関数を求める。そうすると自動車の瞬間の「加速度」が今度は求められる。これはグラフにして微細に示すと一目瞭然なのだが、この場では不可能なので、そうコトバで説明するしかない。ともかく、こういったものが微分というものだ。微分するというのは、ただ曲線を部分曲線に微かに分けるのではなく、それによって得られた成分の比率(微分係数)を求めることだ。
○そこで、微分方程式なんだけどネ。これは私の演劇に関する考え方とヒジョーによく似ているのだワ。方程式そのものがではナイ。その概念、考え方がだ。
私は樋口ミユという劇作家に、「これ、やれるケ」と、おせっかいにも程があるのだが、戯曲をギフトしてみた。何のことはナイ、書いてはみたが自分では演出出来そうにナイから、というか、何かは書いたんだけど、何かがワカランから、樋口に押し付けたのだ。ただし、書いた者としては「部分的(たとえばせりふとか、plotとかsituationとか)」なものはワカッテいる。それがワカランかったらただのアホな新進作家に過ぎない。そこで、そんなものを押し付けられた樋口は、それを「全体」として解釈、解読、解題、しなければならない。演出すんだからネ。つまり私がギフトしたものは「微分係数 dy/dx」だ。それを全体に識知、演出しようとしている樋口の営為が、未知なる関数y=f(x)を求めること(方程式とは等号で結ばれた関数だから)、微分方程式を求めることなのだ。ほんとはここで、その方法の「本質直観」と「想像変容」というフッサール現象学まで説明しなければならないところだが、カツアイ。まあ、樋口は私のホンを直観的感性で捉えて、想像力で変容させていく、と、そいでエエやろ。このときに注意しなければならないのは、抽象的に私のホンを読まないことだ。私のホンに書かれてある具体性から抽象世界を創るのは構わないンだけど、モ。で、樋口がそれをちゃんとやったので、ああ、このホンはそういうホンやったのケと、あたしゃ、驚いたと、まあそういうこってすな。
なにはともあれ、「部分」から「全体」を組み立てるという作業が微分方程式の考え方なんやけど、そこんとこを演劇と数学を対応させて結語にする。前者は微分方程式の情報について、後者は演劇(演者)の表現について。
①「部分固有のくわしい情報である」・・・「演者は固有の(ある役の)表現者だ」
②「現象全体を支配する法則を反映している情報である」・・・「演者は如何に端役であれ、劇全体を表現する者だ」
③(数学にはナシ)・・・「演者は固有の表現者として劇全体と関係する者だ」

2013年2月15日 (金)

非力を認めるのには、自信が要る

他力本願というコトバがある。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗のベースになっている教えで、阿弥陀如来(他力)に救われることを意味している。本来は。ここでは、チガウ意味に使う。つまり自力(自分の能力)以外のもの(他人の能力)に頼ることとして使っていると見做してもらいたい。で、いきなり微分の話をする。またかよと読者は思うだろう。けどな、数学というのは考え方の一分野の学問だから、何に応用してもイイのだ。というのが私の考え方で、アタリマエだが、演劇論に、その概念を応用している。数学が難しいとか、苦手とかいうのは私も同じだ。私の考えでは数学が難しいのではナイ。数学を説明しているコトバが難しいだけだ。概念はさほど難解なものではナイ。
関数と微分は比較的多く用いる。何故なら関数と微分とは切っても切り離せない間柄だからだ。関数y=f(x)は、xとyとの対応関係だ。どちらかが決まればもう片方も決まる。もうひとつは、関数y=f(x)は、xとyによる対応関係が連続して出来る「曲線のカタチを表している」ということだ。こいつがナイと微分と関係させることが出来ない。グラフを想定して頂ければイイ。まず関数y=f(x)の曲線上のごく一部分を切り出す(区切る)。曲線の部分だから「部分曲線」と数学ではいう。これは何をしたのかというと、曲線を「微分した」ことになるのだ。「微」量に「分」けたからだ。
さて、関数y=f(x)はxとyとの対応関係だった。そうしてそれは曲線だった。そうするとこの微分された関数も、xとyとの対応関係を持つ曲線だ、ということになる。ただし、元の曲線より微細になっている。対応関係だから、ここで、それぞれの曲線はxの成分とyの成分を持っていると考える。このxの成分をdxと記し、yの成分をdyと記す。この比を「微分係数」と数学では称してdy/dxと書いている。イメージするならば、縦軸dyと横軸dxの長さの比だ。微分された曲線はこの縦軸と横軸の中に在る。ところで、この「微分係数 dy/dx」の曲線がxとどう対応しているのかと考えるとすれば、両者は関数の関係に在るということが出来る。つまりdy/dxはxの関数になる。関数y=f(x)から導かれた関数ということになるので、これを「導関数」と称する。これは際限なく続けていくことが出来る(つまりどんどん微分していくことが出来る)。これを距離と速度と時間のグラフに置きかえて考えれば、微分はその瞬間の速度の変化を微細に求めていることになるから、「加速度」を求めていることになる。ここまでは、実は前置きだ。長かったネ。ごめん。
このあいだ、劇作家の樋口ミユに戯曲を一曲ギフトした。理由は、樋口の仕事に期待しているでもいいし、その才能を伸ばしてやりたい欲求があるでもいいし、愛人にするための下心でも、何でも好きなように勝手に思い込んでくれてよろしい。ほんとのところは面倒だから書かない。そんなものオレの勝手だということにしておく。
『白い砂の少女』というタイトルだが、これは加山雄三のアルバムから、ええタイトルやないケ、ケケケケケと、盗んできたものだ。で、『劇王』大会のイベントで出会ったので挨拶に行くと、そのホンとにらめっこをしている。演出のために脚本分析をしていたワケだ。で、彼女は私にその解釈を解説する。私はなるほどと思う。一旦手渡されたホンは、どのように読まれてもカマワナイ。だいたい私は、おおよその見当でしか書いていなかったもんだから、彼女がそれを彼女なりに読み込んだのを聞いて、そういうホンだったのかと思う。つまり私は関数を提供したのだが、彼女はそれに彼女の関数として接線を引いて微分したということになる。ところで、私はどうも買い被られているので、そんなことは私には最初からお見通しだったと彼女は思ってしまう。こういう事例はよくある。私は他力本願だから、囲碁に例えるなら、ここに石を置くということは一応決めているのだが、他のスタッフ・キャストから違う場所を指摘されると、ああ、そこのほうがイイなと、すぐにそれを取り込んでしまう。囲碁は石一つで局勢が変わる。で、私がそれをやると、それを教えてくれたスタッフ・キャストは、その手も私の手順、読みの一つにすでにあったはずだと、私を買い被って思い込んでしまう。だから、あまり進言しなくなった。私は他力本願には自信があるのだ。いつぞや岸田國士先生の戯曲を三曲演出したことがあったが、三つとも何の話だかワカラナクテ、全部、スタッフ・キャストに教えて貰った。他力の正しさとマチガイを判断する自信があるからこそ、私は私の非力に恥じたことは一度もナイ。

2013年2月14日 (木)

メタ・パラ(続)

炊飯器に米を三合半仕掛けた。こういう疾病状況のために無洗米を用いている。これから死のうとしているものが、飯など炊くはずがナイ。従って、あくまで希死念慮は念慮に過ぎない。つまり「死にたい」という欲求、要望、要求だ。この理由の出所が自身には残念ながらワカラナイ。また、何故、波動攻撃型なのかも不明だ。
これまでに幾度か書いたと記憶しているが、私は、私の疾病の症状が苦しいことをのみ訴えているのではナイ。おそらくは、このブログを読んでいるだろう、不定の双極性障害、鬱病患者のひとびとに、貧者の一灯となればという強い祈りと願いがそのmotivationだ。とりあえず、ロキソニン(鎮痛薬)と、麻黄附子細辛湯(漢方薬・ふつう感冒、気管支炎の治療に用いられるが、倦怠感や気力減衰にも効果がある)、補中益気湯(食欲の増進、気力の減衰、免疫力の強化)、紅参末(補中益気湯と同様の効果がある)、レキソタン(自律神経を整える)を服用。抗鬱剤は服用していない(副作用が意外にあるのだ)。
仕事はやり始めたが、集中力が不足してまったく書けない。それで、DVDでテレビドラマを観ているが、これも、なかなか集中は出来ない。しかし、能動の仕事と違って受動しているのだから、そのぶんはまだ楽だ。
東京の現場で仕事をしている嫁さんから昼食休憩らしく、メールが入った。午後からも怪我をしないように仕事頑張ります、と、それだけのものだが、これは、二人で話し合って、あまり疾病に立ち入らない内容の応答にすることに決めたからだ。下手な心配や励ましは逆効果だということは、よく医療関係者や患者諸氏も認識していることだ。朝方から何通書いたか記憶にナイ、妙なメールについても触れない。そこは、私のような病者に対する配慮のひとつだ。これも相談して、そう決めた。ようするに、メールを読んで容態はワカッテイルという応答がタイセツなだけなのだ。だから「はい、了解」でもイイということにしてある。鬱病、双極性障害者が、最も辛苦するのは、周囲の親しい者に理解が得られないこと、理解されるように説明が出来ないこと、だ。さらに、自身の行為が病的なのか常態なのかの客観的な判断が、自身で出来ないという不安があることだ。
実にやっかいで、面倒くさい疾病だが、その正体を識るものは世界の医師の中に、まだひとりも存在していないまま、罹患者の数だけは、世界保健機関の統計だけで、3億5000万人を超えている。

メタ・パラ

ここ数日、希死念慮が毎晩現れる。劇作家協会東海支部の『劇王』で、tension up をやっていた反動の、双極性障害で鬱時(時間単位で出るので、期とはせずに時としている)が多くなったからかと思っていたけど、いっこうに収まらない。同時に確定申告の事務雑事という、世にも恐ろしい(つまり最も苦手なということだが)数字と向かい合っていたからなのかも知れないが、それがやっと片づいたのに、やっぱりキチガイなのだ。
今朝は洗顔をしたのか、歯磨きしたのか、記憶がすぐに消えて、痴呆症のように、ケールのスイッチの止め方が一瞬ワカラナクなっておたついたり(自然に止まるのだ)、手で切れるコーヒーのパックをハサミで途中まで切ってから、おやっと気がついたり、五日前にナイフで斬った親指の傷が関節部分なので、曲げ伸ばしするのでなかなかふさがってくれなくて水仕事が面倒だったり、まるで、確定申告の数字計算が続行されているようで、そうなのだ、あの計算は足し算なのだが、もちろん電卓を使うのだが、まず計算して出た数字を①とすると、検算した②と数値がチガウ。そこでさらに検算すると③はまたチガウ。仕方なく何度も計算して、より多く一致(出現)した数値を、その計算の正解の数字とするしかなく、これではまるで確率で、正誤を決めているようなものだ。なんとなく自身の姑息な生き方と似ているので、よけいに癪に障る。
夜は大阪の嫁さんに電話して、とりあえず一息入れて、それからアルコールで逃げると、もう、思いついたことをメールで書き殴って、迷惑省みず送信して、そのメールのことが朝起きて、自己嫌悪材料となるのか、ともかく、そのときはそう思っていたのだから、仕方ないのだが、また鬱時が始まって、希死念慮がやってくる。おまけに今朝は、キチガイで、いったい何通メールを送ったか、その内容も記憶になくて、東京の現場で仕事している嫁さんには、ムチャクチャの迷惑メールでしかナイなと、彼女の仕事の邪魔ばかりしている。こういうことを書くと、こういうことを書いたことが、また、自責の因となるのだが、嫁さんはともかくなんとか対応してくれるのだが、だいたい、そういうオトコを亭主にしたことを諦めてもらうしかナイ。私は一所懸命だったのだ。前妻さんにも、元妻さんにも、他に好いた女性にも一所懸命だったのだけど、ぜんぶすべて、私のマチガイだった気がする。勘違いだったのに決まっている。そこで、死ぬしかないかと希死念慮がやってくるというスパイラルになる。希死念慮は、πの計算か極限と同じで、ほんとうに死ぬことはナイのだが、死にたいという気持ちだけが、数分から長いときは数時間つづいて、これが波動でやってくる。メタにもどったかと思うとパラに引き戻される。
私は、最後の仕事として、この双極性障害に論理的に決着をつけてやるつもりだが、この宿痾は、ひとを巻き込むので始末が悪い。それで済むことではけっしてナイが、巻き込まれたひと、巻き込まれているひとには、ここで、勘弁して、堪忍してと眉間に皺を寄せて黙してうなだれるしかナイ。
ともかく作品だけは、創造営為だけは、この宿痾への反抗のシルシとするしかナイ。書けなくなったら、はい、それまで、ヨ。

2013年2月10日 (日)

劇王(劇天)大胆予想

決勝は、平塚、芝、鹿目でしょう。鹿目の演目がどんなものかは未だ観ていないのでわかりませんし、アト、2グループあるのですが、大胆予想すれば、平塚-芝で観客票が割れて共倒れになれば、鹿目有利ですね。何れにせよ僅差でしょうけど。

2013年2月 7日 (木)

「虚構に過ぎない」は最低の命題だ

あのね、何度か書いたと思うけど、「虚構」というのは「現実」がナイと生じないのネ。で、「現実」というものが在るのかというと、在るとしかいえないんだけど、生じるのは常に虚構なの。ナニいってるかワカンナイでしょ。これをなんとか、科学的に証明、論説しようとしてんのが、いまの理論的分野の仕事なの。「愛と円とベクトルと」てのは、彼女にいわせると「インテリの書いたのろけ、ね」になるんだけど、私は「大真面目にふざける」のが好きなの。そういう一文なのよ。私の芝居なんて、みんなそうだからね。
高校生のときね、まあ、無神論者とか虚無主義でもなかったんたけど、神さん、いてはるようにも思えんかったので、折衷案、妥協案を考えたことがある。つまり、「この世界は神が創った、でええことにしょう。つまり演劇でいうと神さんは劇作家や。しかし、オレたちは役者や。中には演出の出来るもんもおるやろけど、まあ、役者でええわ。けっこう役者はオモシロイしな」というふうにです。
つまり、ね、「創られた」のなら創られた私たちは作品やし、作品である以上「虚構」ということでしょ。これは、宗教的応答。科学的ではナイ。しかし、まあ、楽なことは楽やなあ。
タイトルの「虚構にしか過ぎない」は、否定的、悲観的な命題です。「虚構ですが、だから」。この「だから」のアトには無数のコトバが存在する。疑問符にしてもよし、感嘆詞にしてもよし、反抗的になってもよし、諦観してもよし、しかし、「過ぎない」はアカンなあ。最も嫌うなあ。
吉本(隆明)さんは、男女の関係と了解を『対幻想』とおっしゃった。私は、その真理は認める上で敢えてそれを「対の虚構」と呼んでもイイように論理を構築したいのよ。つまりね、「幻想」なら等速直線運動でしょ。それは吉本さんが、ヘーゲルの影響を大きく受けてはるさかいにしょうがない。そこからマルクスの自然哲学やから、やはりある運動力学は持つんやけど、それゆえにフーコーの哲学にはカウンターパンチをもらったようにヘコまはったけど。しかし、ヘーゲルを(その「概念」は~である~でしかなく、それ自体の変容(状態)を捉えられない)と、批判したシェリングふうに考えると「虚構」はもう少しチガウ力学が導入出来るような気がするのよね。そういうところで演劇も考えているから『恋愛的演劇論』なワケ。
眠たくなってきたわ。こんなもん書いてると眠たくなるのもしゃあないけど。

2013年2月 5日 (火)

愛と円とベクトルと②

私たちは、両者の愛のチガイを語り合ったことがある。正確にいえば、彼女から私が聞かされたのだが、彼女は絨毯に円を指で描き、「これがあなたに対する私の愛。なんでも包もうと一所懸命。でも、それがstressになって、逆に私がしんどくなり、そのことによってあなたを苦しめることにもなる。さらにそれが私をつらくさせる」と、こういうことは、別に私たちに特異なことではナイ。対であるひとびとには常につきまとう幻想のようなものだ。ただ、ふつうの対たちはこういうことあまり語り合わないらしい。つまりどっちかが我慢(これを大人になるというらしい、が)していることになる。ところで、彼女にいわせれば、私が彼女に示す愛というのは直線だ。いっぱい、何本もある直線だ。直線だから円のようには包まない。何本あっても、隙間がその数だけ出来る。私はこの教示になるほどと首肯するしかナイ。では、愛の在り方がチガウから、もうお終いで別れてしまえばいいのかというと、私も彼女もまったくそんなふうには結論づけない。そんな結論をみつけるために話し合っているのではナイ。私にしてみれば、その在り方に確認が出来ればイイ。私は「円」と「直線」の「愛」を考える。私なりに懸命にその感性を論理づけようとする。
まず、私の「直線」を単なる直線ではなく、「ベクトル」だというふうに置き直す。ベクトルは実に活用が効く。直線をベクトルにしたことで、私の愛は「方向」と「量」を持ったことになる。さらにこのベクトルをシュレディンガーの波動関数における「状態ベクトル」だと格上げする。状態ベクトルというのは、ベクトルの重ね合わせのことだ。重ね合わせというのは、異種のベクトルを重ねるということだ。これは波動関数だから「関数」だ。つまり縦軸と横軸による平面に座標として描ける。と、ともに曲線と接点を持つ接線とすることが出来る。円は曲線だ。従って、彼女の愛が円であるのならば、私の直線は、状態ベクトルとして、さまざまに接点を持つ接線として触れることが出来る。この関数を導関数に変化させていけば、「加速度」をもたせることも出来る。つまり、彼女の愛と私のそれとは離散しているのではナイ。無数に接触している(させる)ことが可能だということだ。
次ぎに彼女の円を三角関数でつくられる円だと置き直す。ここでも縦軸と横軸の平面がつくられる。絶対値は変化しないが、偏角(sineθ)による縦軸と横軸による平面上の座標(α・β)は、偏角の大きさによって変わる。絶対値をどういう数値(大きさ)にとっても自由なので、円の大きさは好きなだけということになる。この座標(α・β)に接線としての状態ベクトルを引けば、そこが、愛の接点ということになる。縦軸と横軸の中に出来る△(a・b・c)、この場合の角aが偏角sineθだから、その大きさの比によって、b-cが変わる。このbは横軸に在り、cは座標(α・β)だ。状態ベクトルは重ね合わせだから、(a-b)に重ね合わせることも出来る。つまり、接線として存在出来、三角関数による円の中のベクトルとしても存在することが可能になる。
ひとの思考や行動もブラウン運動している、と定義すれば、常軌などは自己防衛(egoism)の手段以外に意味など持たない。この時代、この世間で、無常は悲観的な概念ではなくなったと私は感じている。虚無を生ききるには無常はparadoxな志向性として有効な思想だ。木に竹を接いだような締めくくりになったが、直線と円はコヒーレンス(自己組織化)しながら、意外に密接に関係しあっているということだ。こんなacademicでintelligenceなことは性に合わないので、卑俗にこう結んでもイイ。あばずれとろくでなしでも、一緒に食うことスルことは愉しいのだ。

愛と円とベクトルと①

ここに書かれていることが、面倒くさく難しいと思われる読者に対しては、べつだん読むことを勧めたりはしない。私は、演劇の理論に数学や物理学(量子力学を含めて)などを用いることが多いが、そんなものはさほど難しい概念ではナイ。カテゴリズムとして、ただ、高校で習う程度の数学の「概念」を、私にワカル限りで応用しているに過ぎない。だから、ゆっくりと「考えながら」追っていってもらえば、難儀なことなどひとつも提示してはいないはずだ。これは、簡単にいうならば、「鶴亀算」より「連立方程式」のほうが楽で簡単だと述べているに過ぎない。
論理というものについていうならば、少なくとも「物書き」を生業としているものとしては、それは「感性」として表現出来なければならないし、逆に感性は「論理」としてコトバに変換出来なければならない、と願っているし、これをさらにいうと、「いいたいことがコトバになるとは限らない」、というよりも「いいたいことはなかなかコトバにならない」「コトバとしていったことがいいたかったことではナイ」というコトバの持つ宿命に対するparadoxな反抗だ。昨今流行りのアスペルガー症候群への疑義としてこれを述べるならば、その最たるは、その状態(症状?)に対してコミュニケーションにおける「発語」しか扱っていないということだ。これはあたかも、ウィトゲンシュタイン言語学の成れの果てというありさまではないかとさへ思える。私が演劇において、ウィトゲンシュタイン言語学について否定的なのは「言語限界がその人間の世界限界」だとする「語り得ぬものには沈黙を」という、ウィトゲンシュタインのすまし悟った「どうだうまいこというだろう」という気取りが気に入らないのだし、また「科学哲学」においては、そのbackupとして、ウィトゲンシュタイン言語学を有している(信仰している)輩の多数をしめることに嫌悪するからに他ならない。私たち、少なくとも演劇(戯曲)にたずさわるものは、演劇の言語においては、まず「沈黙」から出発しなければならないはずだ。「沈黙」というのはいい方を変えれば「コトバにならない(出来ない)表出」ということになる。これはどういうことかと、もう一歩突っ込んでいってしまえば、近頃さかんに取り沙汰されているcommunicationとやらの常識を疑ってかからねば、演劇(戯曲)は始まんねえぞ、ということだ。(苦言とやらを呈すれば、ここんところの演劇は、「気持ち」とやらが伝えられるだけの都合のイイcommunicationだけのコトバだけを扱ってやがるからな)。「沈黙=コトバにならない(出来ない)表出」をコトバにするという矛盾に対峙していかなければ、新しい戯曲は成らない。

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »