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2012年12月

2012年12月22日 (土)

憲法九条

違法選挙が終わり、違法であることを承知の勝ち組は、改憲へと向かう姿勢をみせているが、何をして改憲というのか、私にはなかなか合点のいかないところが多い。とはいえ、この国の民は、この国を法治国家だと信じ込んで(思い込まされて)いるのは、どこをどう突っ込んでも、間違いのない事実だ。マスコミでも政治家でも、そういうふうにいうのだから仕方がナイといえばそれまでなのだが、ほんとうは、法治国家というのは、中華人民共和国のような国家をいう。こんな当然の事実はあまり(というか、まったく誰も)かんがえられたことはナイ。法治国家というのは法が人を治めることだが、日本国憲法は、国民の持つ権利をうたっているだけで、国民の義務はたったの三つしかナイ。
第二六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、
     その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
第二七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第三〇条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
それ以外は、国民の権利の条項だ。
つまり、この国は、法が治める国家ではナイ。というと語弊があるかも知れないので、いいなとすと、人が法によって治められる国家ではナイ。
くだんの憲法九条は、戦争放棄の条項だ。
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
つまり、国民の権利の保証という日本国憲法の基本からかんがえると、日本国民は戦争を放棄する「権利」を有しているということになる。その権利とは、「国権の発動たる戦争」を放棄することだし、「国の交戦権」を認めない権利だ。
私は他国からの侵略戦争に対して、守るものは守るべきなのはアタリマエのことだと思っている。自衛隊が自衛軍になろうが、どうでもヨロシイ。なんならスイスのように各家庭に自動小銃を一丁所有することを認めたってイイ。
もし、改憲されるならば、国権の発動たる戦争や、国の交戦権などは認めさせてはイケナイのはいうまでもなく、法治国家などにされるのは真っ平御免だ。
単純なことを一つだけいわせてもらうなら、島の一つや二つ、命懸けで守らねばならない理由のナイ限りどうでもイイことで、国の威信とやらだけは、民の命の片方の天秤にかけてもらいたくはナイのだ。

2012年12月15日 (土)

計画(plan)- K

いま監獄にいるが 明日脱獄するつもりだ
扉(door)は明日の朝までひらかない
けれども Muse が待っているから
オレは 雨の中を 出て行く

ダニエル・クレイグが劣化ウランの銃弾で肩を撃ち抜かれたとき
オレの肩にも痛みが走った
その痛みは消えないで残っている

まるでチャンドラーのヒーロー気取りだけど
夜の飯は煮込みうどんにするわ

誰だか知らないヤツに目隠しなんかされて
後頭部が泥の中に沈んでしまいそうだし
何処か不自然だとは思っていたが
この部屋はただの通路だ
で それが罠になっているというワケか
そんなものは オレには通用しない
オレはプラン-Kで いく
よく みることだ
コンパスと三角定規さへあれば
錠前くらいやぶるのは 簡単だ
だから明日の朝 オレは出て行く

東京へ向かうexpressが失速しない限り
オレはUターンして 西の街の Muse に辿り着く
この雨の中を 
あんたは 傘をさして 待っていてくれるだけでいい

2012年12月14日 (金)

映画感想『脳男』(監督・瀧本智行)

タイトルは『脳なし男』にしたほうがイイ。こんなことを書くと、東宝試写室への立ち入りを止められそうだが、そこは、東宝さんの太っ腹を信じておく。
ともかくこれほどストレスのキツイ映画をみせられたのはあまり前例がナイ。地上に上がって玄関で座り込んでしまったくらいだ。膝が笑って立ち上がる気力もなかった。怒りでいまも指先がふるえたまま、打鍵している。
全編リアリティがナイのは「作り話ですから」といわれれば、それまでなのだが、それならもう少し(いや少しじゃねえぞ)作りようがあったのではないか。このあたりからはネタバレになるので、注意。尺125分のうち、前半の1時間を脳男の正体を説明するのに費やしてしまっては、映画に対する興味はまったく無くなる。役者の演技は総じてドクサイ。これは私の造語で、たんなるクサイではなく、ドクサ(思い込み)との合成語だ。シナリオライターは、よくもまあ、ステロタイプなせりふを連発させる才能があったものだな。恥ずかしくねえのかな。私ゃ悶えながら終に、松雪泰子のラストシーン近くのせりふで椅子からずり落ちた。20年古いワ。かくなるせりふにドクサイ演技が加わるのだからもう、拷問としかいいようがナイ。二階堂ふみは、いわれたように忠実な芝居をしているのだろうから、可哀相だとしかいいようがナイが、あの役はあの演技では駄目だくらいは誰かが諭してやらにゃあ、いけん。彼女も間違えないようにしないと、せっかくの才能が潰れるゾ。
冒頭は、二階堂ふみの爆弾テロ犯人のテロのプロットだが、これが長い。これは、脳男の犯罪と交互に入れていかないと、テンション駄々下がり。そういうことを、海外TVドラマを観て勉強したほうがイイ。だいたい、脳男の犯罪のシーンが(プロットが)ナイというのはまったく能無しとしかいいようがナイのだ。その脳男の能力がまったく発揮されないというのも『能なし男』とタイトルを変更したほうがイイという根拠だ。
江口洋介扮する刑事の部署がまったくワカラナイ。クライマックスの病院爆弾テロで、刑事が単身、突入するか、アホ。
ときどき試写室で出会う、試写会友達が「雇われ映画だから、しょうがナイ」と裏の事情を教えてくれたが、つまり「もう、ガチッと決まっているものを撮るんだから、こんな程度にしかならない」らしい。松雪も江口も立てなきゃいかんし、そこんところは殆ど余計なのだが、つまり、どうしても、嘘なんだが、「雇われ者」映画はそんなもんなんだろう。に、してもだ、あまりにヒドイから、シナリオライター志望の者は、観たほうがイイ。これほどの反面教師はざらにはナイ。
私の映画感想ブログは、けっこうな口コミがあるらしく、イイ映画と書けば行く観客もあるし、ヒデエと書けば、興味本位で行く観客もあるのだ。もちろん、私はこんな怒りにふるえることなく、気分を悪くすることなく、イイ映画の感想を気分よく書きたいに決まっている。

2012年12月11日 (火)

エイと幽霊

幽霊をみたことがあるとか、みたとか、UFOをみたとか、と、いうヒトを「頭が変なんじゃナイ」というものはいない。しかし、ゆんべ風呂に入っていたら湯船に、エイ(マンタ種)が泳いでいるのをみたというと、「ちょっと大丈夫なの」と、たいていのヒトはいうのだ。私にしてみれば、前者のほうは敬遠したい部類だが、後者のほうは、みえたのならみえたのだろうで、何の問題も感じない。ヒトの感覚は知覚現象だけではナイからだ。幽霊がみえる者より、マンタエイがみえるほうが、可愛いじゃナイの。
まあ、そんなことは他愛のナイことで、私が最近奇妙に思うのは、「活断層の上に原発が建設されている」となると、エライ騒ぎになるのに(特にマスコミの騒ぎようはどうだ)これが活断層の上にダムがあるとなると、ひょっとするとダムなら頑丈だから大丈夫だろうと、人々は思い込んでいるのではないかと、怪訝になることだ。活断層など勘定したらキリがナイほど、日本列島には散在しているのは承知のことだと思うのだが、つまり、ダムだって幾つかは、活断層に跨がっている可能性はナイわけではないはずだ。
ところで、ダム建設と原発建設を比較すれば、原発が、ダムよりも幾重にも安全基準をきびしくして造られているのは、アタリマエではないか。そうじゃないの。そうじゃないのなら、どうか、エビデンス(科学的根拠)となる数値を提示してみせてもらいたい。
ダムだって地震で崩壊すれば、津波の逆現象で、ふもとの町は崩壊するだろう。私はなにも、如何なる地震にも耐えうる原発を造ればすむことではないか、などという「想定外」を無視したことをいっているのではナイ。ただ、原発建築に携わったときの技師、設計者や、建築技術者などは、自分たちの誇りある仕事を、まるで手抜き工事のように貶されて歯痒い、悔しい思いをしているのではないだろうかという、その一点につきる。
いったい、私たちは原子力発電所が、どういう工法で造られるのか、まったく情報を開示されていない。それは、幽霊ならみても不思議ではナイが、浴槽にマンタエイをみるのは奇怪しいといっているのと、同じではナイか。
活断層、原発危ない、この短絡的思考は、けして科学者のすることではナイ。

2012年12月 5日 (水)

ドンキホーテたちへの感想

師走総選挙ということで、枯れ木も花のにぎわい、我も我もの民主主義。で、感想。
その前にひとこと。マスコミなんかが、有権者は選ぶ側として「責任ある一票を」てなことをぬかしてるが、日本国憲法第十五条「普通選挙と秘密投票の保障」④では「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない」と明記されていることくらいは知っておいたほうがイイ。つまり、「選ぶ側にも責任がある」てな妄言は吐くなということだ。例えば「三年以内に国民の所得を2倍にします」なんて公約があったら、私も一票入れるかも知れない。で、その候補者が当選して、その通りにならなかったら、私の一票に責任はあるか。ナイのに決まっている。
近いところで、「日本未来の党」。公約は「10年以内に原発を無くす・卒原発」の金看板一枚。ここの代表の滋賀県知事嘉田センセが、県知事になってから、滋賀県はどれだけ良くなったか。県民に問うてみるとイイ。「もったいない」というスローガンで、前知事の築いた基盤がどれだけぶっ壊れたか。滋賀県はちっとも良くなってませんぜ。sloganではなく、slow gunやんけ。「10年以内に原発ゼロ」は「日本維新の会」の橋本くんにいわれるまでもなく、全くエビデンスがナイ。根拠のナイことなら民主党のマニフェストと同等だ。
その「維新の会」。これね、村の老人会と青年団が組んで、消防団と一緒に気勢をあげているというふうね。それ以上、それ以下でもナイ。自主憲法の制定、まだ、こんなこというのがいるのだ。それと、個人的趣味と教養の無さを尺度に芸能芸術を批判したつもりになっている、大阪文化踏み潰しの若僧と、追従する「な~んか刺激が欲しいな」つう若年の大衆と。村おこしと国政は、レベルが違う。
アトは、十把一絡げ、投げ売り。
自民党が政権を奪還しようが、民主党が死守しようが、変わりませんよ。
私がこりゃあ、聞き捨てならねえなと思うのは、大衆の一部(あるいは多くに)「強いリーダーシップがとれるひとが欲しい」という声があること。こりゃあ、危険です。私たちはまったく逆に、そういうリーダーシップ(をとれるもの)がいないのだから、私は、私たちは如何にすればいいのか、を考えねばなりません。農業をやるものは、この大根一本がどうしたら損なく安く売れるか、町工場の社長さんは、もとより日本は中小企業基盤の生産国なのだから、大企業に対して下請けとして、如何に毅然として物づくりが出来るかを、医者は、自分を神様だと思ってもイイからひとの命を救うことを考えろ。働かずして銭儲けなどを目指しているものは、「働かざるもの食うべからず」(新約・テサロニケ人への手紙・使徒パウロの書簡3章10節)をココロに刻め。(と、エラソウなこと、いうとく、ワ)
必死に生きようとしているひとが日本にはいる。生きたくても生きていけないひとが、この世界に10億人いる。日本の年間自殺者は、3万人。これは、年間交通事故死者数の8倍だ。だから、なんだ。私もまた、どれだけのひとを知ってか知らずのうちに不幸にしてきてしまったろう。私の仕事なんざ、罪ほろぼしというサービス業です。

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