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2012年11月17日 (土)

『万国の労働者よ団結せよ』てなことは出来ないナ

マルクスのいうこと(書き記したこと)はいちいちもっともで、その著書は史上最も偉大な業績だということに異論はナイのだが、一つだけ、こりゃあ、無理だろうと肌で感じているのが、表題だ。マルクスは「労働」や「労働者」の理念はおそらく世界中の誰よりも深く識っていた。しかし、マルクス自身が労働者になったということはナイ。だからダメだということではナイのだが。表題のコトバは『共産党宣言』の末尾を飾るコトバだ。そいでもって、たしかに現在の社会主義国家は、労働者の団結による革命とやらで誕生したかのように思われているのだが、それは、錯誤だ。そんなものは、一部のインテリの先導によって成されたことで、その後はその一部のインテリの権力闘争に陥っているか、独裁政権の道をたどっている。
肌で感じたというのは、私は18歳のとき、手痛い失恋をして、その傷を癒す(あるいは忘れる)ために、『共産党宣言』の一冊をポケットにしまいこみ、ある舞台製作の労働現場でアルバイトをした。殊勝にも、私は休憩時間にマルクスの『共産党宣言』を熱心に読んだということになる。で、読めば読むほど、マルクスの記述はいちいち正しいのだが、私の目前に展開される労働現場は「チガウ」のだ。その頃の私の労働現場の労働者の賃金は、単位では示せないが、通常の月額賃金での生活はままならず、ひとり平均100時間の残業をしてやっと食えるというものだった。多い者は150時間の労働時間をこなしていた。そういう者は家族があって、嫁は産まれたばかりの子供の育児で働きにも出られず、亭主の稼ぎに糊口を託していたので、亭主のほうは、150時間の残業を余儀なくされたというワケだ。
ここで、私は、『共産党宣言』が殆ど無効だということと、現実の労働現場と労働者がどういうモノかということを身に沁みて覚えることになった。
それから、40年以上の時間が過ぎて、労働環境の改善と、賃金の改正で、労働者は平均100時間の残業からも、残業そのものからも解放されたかのようにみえるが、職種によっては、平均労働が1日8時間をこえるものはザラにあるのだ。私のような労働は、頭脳労働と称されているが、どっこい、目や耳(や、取材や出向によっては)足も使うので、意外に肉体労働でもある。私の場合、目は、老化によって、1時間に一度は休みを入れないとピントが合わなくなっている。これは、書き物の場合も、演出をする場合でも同じことなので、二時間の舞台を演出することは、目の状態からして可能ではナイ。前半の1時間を観たところで、演技者の顔がみにくくなってくる。
話をもどす。あの頃、私が『共産党宣言』を読み込もうと必死になっていたあの時間、休憩などあってナイような他の労働者の話すことは、博打と女と野球、中には真面目(にというのか)舞台美術の何たるかを真摯に考えている者もいるにはいたが、それは愚痴として口に出るだけで、決められた予算で、如何に身を削るか、そこに能力を集中させることに精一杯だったようだ。おそらくマルクスなど、阿呆らしくて聞く耳持たなかっただろう。私はそこを1年ほどで辞めた。そのまま、彼らのように生活に沈んでいくほうが、楽だろうけど、自分はまだまだ若いのだという、不遜に近い自負があったからだ。他に私がやったアルバイトの肉体労働の現場でも同様のことがいえる。けっこう仕事がオモシロクなってくる。しかし、オレは演劇をやるんだという、同様の自負心から、けっきょく、ロクデナシな稼業に精を出すことになった。まったく悔いはナイんだけどもな。

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