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2012年11月14日 (水)

「僕と共鳴せえへんか」

というふうに冗談めかして女性を口説いたのは、オダサクこと織田作之助だ。何をいわんとしているのかは、雰囲気(nuance)として理解は出来る。単純な例をかんがえれば、何か二つの異なった弦楽器の二重奏を思えばイイ。あるAという楽器とBという楽器が演奏を始める。それらはA、Bそのものでもなく、しかし、A、Bによって奏でられた音だ。これを一つにまとめて(AwB)とする。この場合のwは振動数だ。これによって新たなCが生まれるとする。記号式にすれば、(AwB)=Cと書ける。そうすると、共鳴とは、違う二つのものが、止揚して、新たな音の振動を創るということになる。この形態は何処かででみたような気がする。つまり、ヘーゲルの弁証法が、よく似ているその類だ。しかしながら、ヘーゲルの場合の弁証法という運動は(AwB)=Cではなく(つまり連続-継続運動であるから、そこで終わるのではなく、(AwB)→Cと記述される。ヘーゲルの弁証法運動は、この矢印(→)が、限りなく止揚されていく。なるほど、と、弁証法を学んだときは、合点した。
しかし、ここで、その初期設定のA、Bにちょいと立ち戻ると、このA、Bは初期設定だから、初期設定を外れることは出来ない。いわゆる平衡で静止していなければならない。これをニュートン力学で置き換えれば、初速(p)の自動車が一定の時間(t)走り出して、(p1)に辿り着いた点の距離の求め方になる。ニュートン力学では、何の力も与えられられないモノは静止していなければならない。つまり平衡状態でなければならない。これが自由度(というか、いい加減さ)を持つと、ニュートン力学は成立しない。
共鳴のA、Bにもどれば、最初のA、Bの振動数(w)である初期設定を変化させることは出来ない。ところで、これを自然界に返す、あるいはヒトそのものでかんがえると、そんなことは、極めて希なことというしかナイ。ヒトは、常に初期設定を変化させてしまうからだ。これは、こうもいい換えることが出来る。「ラプラスの悪魔が、如何に精緻な初期設定を行おうとも、未来を予測することは出来ない。何故なら、ラプラスの悪魔が初期設定(条件)を整えられるのは、その時点でだけだから」これはこうもいうことが出来る。「安定した初期設定などアテにはならない。どのような精度の初期設定すら破壊させてしまうほどの不安定性が存在する」もっといってしまえば、「不安定性こそが、不可逆の時間の矢から放たれた矢そのものだ」し、その「不安定」とは「運動の自由度」のことだ」と。さらにいうならば、こと「演劇」に関しての「運動」とは、この自由度がカギを握っているのではナイかと。「不安定」をおそれてはいけない。表現は一途に、この不安定な自由度という、運動に係っている。
というよなことを、メモ代わりにして、我が『恋愛的演劇論』の最終章はは試行錯誤を重ねておるんじゃ。
その手のホン(物理学などなど)を読む程度は出来るんだが、なかなかこれを演劇に写像することは難しく(とはいえ、そこにしか答がナイからそうしてるんだけど)、いわんや解説するとなると、まだまだ一苦労であります。とはいえ、オダサクのいった、「共鳴する」ということについては、実生活で、だんだんと、新鮮にワカルようになってきた。出来得るならば杉下右京をお手本に、脳髄をば働かせばイイ。及ばずともだけど。

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