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2012年11月10日 (土)

虚構というもの

そろそろ『恋愛的演劇論』の最終章に着手しなければならないのだが、もともとこの演劇論は「現実」と「虚構」についてかんがえるところから始まった。「現実とは何か」「虚構とは何か」、「現実と虚構の関係とは何か」だ。もちろん、何の結論ももたずに始めたワケではナイ。タイトルを「恋愛的」としたのは恋愛というものこそ、最も現実と虚構の場に横たわる、卑近でありながら尊遠、多くの嘘と真実を含んでいる現象だからだ。それはまったく演劇という表現の表出と重なるものだ。ある結論めいたことをいえば、恋愛の何が現実で何が虚構かとcategoryを分けることはまったく意味がナイ。それは意識があって無意識があるように、また、原子核が陽子と中性子と電子によって成り立っているように、ひとつの関係の上に了解しなければならないものだということになる。
イソップ童話はそれぞれが教訓を含んでいる物語だが、その中に『狼少年』の話がある。(例の「狼少年ケン」じゃ、ありませんよ)。この話の教訓は、いつも嘘をついているとほんとうのことをいったときに、誰も信用してくれませんよ、誰にも信用されませんよ、というものだが、法華七喩(ほっけしちゆ・法華経に説かれる7つのたとえ話)の一つに三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)というたとえ話がある。かいつまんでいえば、ある長者の屋敷が火事になる。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気がつかない。そこで、長者は、子供たちに「おまえたちが欲しがっていた、三つの玩具が外にあるよ」と嘘をいって子供たちを導き、救い出すことに成功する。これを、イソップの童話をもじって活用すれば、ある時、村に一大事がせまっていることを、少年は村人に報せようとするが、子供のいうことなど大人が聞くワケがナイ。そこで「狼が来た」と嘘をついて村人を逃がすことにした。これは世間でいうところの「嘘も方便」というものだ。
つまり、嘘というものも、関係の上では事実(真実)に至る道程となることを示しているのだが、fiction(虚構)というものは、それ自体に現実に至る関係性を持っている。何故そうなるのかは、虚構というものが、必ず現実から始まって創られているからだ。贋物のダイアモンドも、ほんものに似せて創るのは、アタリマエのことだ。
ところで、私は、ここで、虚構は嘘から事実(真実)至る道程だなどと論理を展開しているワケではナイ。両者の関係性について述べているのだ。ふつう、虚構に携わるものは、多く前者の行程を信じている。しかし、虚構と現実の関係は行程ではナイ。数学の発明、あるいは発見の中で、最も大きなものは、ゼロ(0)と虚数(i)だ。何もないという意味でのゼロ(0)は現実には存在しない。またマイナス×マイナスの乗算がマイナスとなる虚数(i)も現実には存在しない。しかし、この二つのアイテムがなければ、現代数学は崩壊する。もちろん、量子力学もまた記述不可能になる。
虚構と現実を説明しやすいのが複素数だ。複素数は任意の二つの実数 a, b に対し a + bi の形で書かれる数のことだ。なぜ虚数をiと記すのかというと、このiはimageの頭文字だからだ(正確には imaginary number )。つまり、虚数そのものは想像力だと思えばイイ。これを x + iyとして 座標(x, y)をとれば、複素数は平面と考えることができる。これが複素平面だ。複素平面では、x 座標に実部、y 座標に虚部が対応し、 x 軸のことを実軸、y 軸のことを虚軸と称する。この実部を「現実」だと考えれば、複素平面は「虚構」と考えて差し支えないと思える。ということは、現実と虚構との関係においては、圧倒的に虚構の場のほうが広いということになる。ただし、その虚構は、現実と密接な関係を持ち、それ自体では成立しない。この関係性には、もう少し詳細な解説が必要だが、それは『恋愛的演劇論』の本論にゆずる。

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