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2012年11月

2012年11月27日 (火)

氷のheart

わたくしのheartは氷のようなので
わたくしじしんの熱でとけるらしいです
わたくしは愛をだきますが
heartが氷なので 愛が凍ります
  (いくたびか 愛はエントロピーの絶対に向かい)
ダイアモンドは瑕つきませんが
わたくしのheartは氷なので
かんたんに瑕つきます
瑕つきますが すぐに また凍ります
 (炭素体でなく 水素と酸素ですから)

わたくしは あいにくダイアモンドは好みません
欲しいとおもったことは ありません
ダイアモンドのような女も いりません
できるなら 水のような女が いいんです
  (カタチさだまらぬ 水のように あるいは安定しあるいは不定形)
だきしめると いっしょに凍ります
いっしょに凍って
ふたりの熱で ふたりのheartはとけます
ふたりのheartは いっしょにとけますと
やがて水になって まざりあって また氷になります
  (沸騰と蒸気と雫と 液状と固形のコヒーレンス) 

そうやって 氷のわたくしと 水の女のheartは
氷河期を超えていくのだとおもいます

2012年11月25日 (日)

不条理

先だって、渡山くんの『死愛づる姫君』を共同スタジオで観劇したが、不条理劇のparodyかなと思った。「だな」ではなく「かな」だ。
渡山くんは不条理劇が好みなんだろうけど、おそらく「不条理」が好みというワケではナイ。というか、不条理劇の雰囲気は好きだが、「不条理」については興味があるとはいえない、といったふうだ。
「不条理」というのは何か、一度、渡山くんなりに定義してみるとイイ。私の定義はいたって簡単で「ひとは必ず死ぬ」だ。これ以上の定義もこれ以下の理解もナイ。たとえ恋人に「きみのことは永遠に愛します」といっても、死ぬんだから、出来るワケがナイ。つまり、人間というのは、もともと不条理に出来ているということだ。もちろん、それは歓迎されることではナイ。ここから、不条理をどう受け止めるかという人間の争闘が始まる。不条理劇(小説)というのは、不条理を描くものと、この争闘を描くものがある。アルベール・カミュの『異邦人』は前者で『ペスト』は後者に該ると、おおまかにカテゴライズしてもあながちマチガッテはいまい。
ところで、同じ不条理でも、カフカは暗いが、カミュはアカルイのだ。カフカの暗さは根強いが、カミュのアカルサは、せつなく哀愁を含んでいる。私はromanticistなので、どちらかというとカミュを好む。
東方で、不条理に気づいて、これを真剣に考え抜いたのは釈迦牟尼だ。「生病老死」の、いわゆる「四苦」などは不条理そのものではないか。「会者定離」もそうだ。
有名なカミュ、サルトル論争で、当時勝った(といわれた)のはサルトルだが、現在、サルトルの思想など廃れてどこにもナイ。しかし、カミュがあの論争で述べた闘いの方法は現在も有効だ。communismが全盛のとき、その闘争の方法に反旗をひるがえしたカミュは、かなり勇気と覚悟を持っていたにチガイナイ。
「真なるものは蹉跌する」、なぜ、そんな不条理が罷り通るのか。日常は不条理に満ちあふれている。芝居のネタなんざ、いくらでもあるぜ。

2012年11月17日 (土)

『万国の労働者よ団結せよ』てなことは出来ないナ

マルクスのいうこと(書き記したこと)はいちいちもっともで、その著書は史上最も偉大な業績だということに異論はナイのだが、一つだけ、こりゃあ、無理だろうと肌で感じているのが、表題だ。マルクスは「労働」や「労働者」の理念はおそらく世界中の誰よりも深く識っていた。しかし、マルクス自身が労働者になったということはナイ。だからダメだということではナイのだが。表題のコトバは『共産党宣言』の末尾を飾るコトバだ。そいでもって、たしかに現在の社会主義国家は、労働者の団結による革命とやらで誕生したかのように思われているのだが、それは、錯誤だ。そんなものは、一部のインテリの先導によって成されたことで、その後はその一部のインテリの権力闘争に陥っているか、独裁政権の道をたどっている。
肌で感じたというのは、私は18歳のとき、手痛い失恋をして、その傷を癒す(あるいは忘れる)ために、『共産党宣言』の一冊をポケットにしまいこみ、ある舞台製作の労働現場でアルバイトをした。殊勝にも、私は休憩時間にマルクスの『共産党宣言』を熱心に読んだということになる。で、読めば読むほど、マルクスの記述はいちいち正しいのだが、私の目前に展開される労働現場は「チガウ」のだ。その頃の私の労働現場の労働者の賃金は、単位では示せないが、通常の月額賃金での生活はままならず、ひとり平均100時間の残業をしてやっと食えるというものだった。多い者は150時間の労働時間をこなしていた。そういう者は家族があって、嫁は産まれたばかりの子供の育児で働きにも出られず、亭主の稼ぎに糊口を託していたので、亭主のほうは、150時間の残業を余儀なくされたというワケだ。
ここで、私は、『共産党宣言』が殆ど無効だということと、現実の労働現場と労働者がどういうモノかということを身に沁みて覚えることになった。
それから、40年以上の時間が過ぎて、労働環境の改善と、賃金の改正で、労働者は平均100時間の残業からも、残業そのものからも解放されたかのようにみえるが、職種によっては、平均労働が1日8時間をこえるものはザラにあるのだ。私のような労働は、頭脳労働と称されているが、どっこい、目や耳(や、取材や出向によっては)足も使うので、意外に肉体労働でもある。私の場合、目は、老化によって、1時間に一度は休みを入れないとピントが合わなくなっている。これは、書き物の場合も、演出をする場合でも同じことなので、二時間の舞台を演出することは、目の状態からして可能ではナイ。前半の1時間を観たところで、演技者の顔がみにくくなってくる。
話をもどす。あの頃、私が『共産党宣言』を読み込もうと必死になっていたあの時間、休憩などあってナイような他の労働者の話すことは、博打と女と野球、中には真面目(にというのか)舞台美術の何たるかを真摯に考えている者もいるにはいたが、それは愚痴として口に出るだけで、決められた予算で、如何に身を削るか、そこに能力を集中させることに精一杯だったようだ。おそらくマルクスなど、阿呆らしくて聞く耳持たなかっただろう。私はそこを1年ほどで辞めた。そのまま、彼らのように生活に沈んでいくほうが、楽だろうけど、自分はまだまだ若いのだという、不遜に近い自負があったからだ。他に私がやったアルバイトの肉体労働の現場でも同様のことがいえる。けっこう仕事がオモシロクなってくる。しかし、オレは演劇をやるんだという、同様の自負心から、けっきょく、ロクデナシな稼業に精を出すことになった。まったく悔いはナイんだけどもな。

2012年11月14日 (水)

「僕と共鳴せえへんか」

というふうに冗談めかして女性を口説いたのは、オダサクこと織田作之助だ。何をいわんとしているのかは、雰囲気(nuance)として理解は出来る。単純な例をかんがえれば、何か二つの異なった弦楽器の二重奏を思えばイイ。あるAという楽器とBという楽器が演奏を始める。それらはA、Bそのものでもなく、しかし、A、Bによって奏でられた音だ。これを一つにまとめて(AwB)とする。この場合のwは振動数だ。これによって新たなCが生まれるとする。記号式にすれば、(AwB)=Cと書ける。そうすると、共鳴とは、違う二つのものが、止揚して、新たな音の振動を創るということになる。この形態は何処かででみたような気がする。つまり、ヘーゲルの弁証法が、よく似ているその類だ。しかしながら、ヘーゲルの場合の弁証法という運動は(AwB)=Cではなく(つまり連続-継続運動であるから、そこで終わるのではなく、(AwB)→Cと記述される。ヘーゲルの弁証法運動は、この矢印(→)が、限りなく止揚されていく。なるほど、と、弁証法を学んだときは、合点した。
しかし、ここで、その初期設定のA、Bにちょいと立ち戻ると、このA、Bは初期設定だから、初期設定を外れることは出来ない。いわゆる平衡で静止していなければならない。これをニュートン力学で置き換えれば、初速(p)の自動車が一定の時間(t)走り出して、(p1)に辿り着いた点の距離の求め方になる。ニュートン力学では、何の力も与えられられないモノは静止していなければならない。つまり平衡状態でなければならない。これが自由度(というか、いい加減さ)を持つと、ニュートン力学は成立しない。
共鳴のA、Bにもどれば、最初のA、Bの振動数(w)である初期設定を変化させることは出来ない。ところで、これを自然界に返す、あるいはヒトそのものでかんがえると、そんなことは、極めて希なことというしかナイ。ヒトは、常に初期設定を変化させてしまうからだ。これは、こうもいい換えることが出来る。「ラプラスの悪魔が、如何に精緻な初期設定を行おうとも、未来を予測することは出来ない。何故なら、ラプラスの悪魔が初期設定(条件)を整えられるのは、その時点でだけだから」これはこうもいうことが出来る。「安定した初期設定などアテにはならない。どのような精度の初期設定すら破壊させてしまうほどの不安定性が存在する」もっといってしまえば、「不安定性こそが、不可逆の時間の矢から放たれた矢そのものだ」し、その「不安定」とは「運動の自由度」のことだ」と。さらにいうならば、こと「演劇」に関しての「運動」とは、この自由度がカギを握っているのではナイかと。「不安定」をおそれてはいけない。表現は一途に、この不安定な自由度という、運動に係っている。
というよなことを、メモ代わりにして、我が『恋愛的演劇論』の最終章はは試行錯誤を重ねておるんじゃ。
その手のホン(物理学などなど)を読む程度は出来るんだが、なかなかこれを演劇に写像することは難しく(とはいえ、そこにしか答がナイからそうしてるんだけど)、いわんや解説するとなると、まだまだ一苦労であります。とはいえ、オダサクのいった、「共鳴する」ということについては、実生活で、だんだんと、新鮮にワカルようになってきた。出来得るならば杉下右京をお手本に、脳髄をば働かせばイイ。及ばずともだけど。

2012年11月10日 (土)

虚構というもの

そろそろ『恋愛的演劇論』の最終章に着手しなければならないのだが、もともとこの演劇論は「現実」と「虚構」についてかんがえるところから始まった。「現実とは何か」「虚構とは何か」、「現実と虚構の関係とは何か」だ。もちろん、何の結論ももたずに始めたワケではナイ。タイトルを「恋愛的」としたのは恋愛というものこそ、最も現実と虚構の場に横たわる、卑近でありながら尊遠、多くの嘘と真実を含んでいる現象だからだ。それはまったく演劇という表現の表出と重なるものだ。ある結論めいたことをいえば、恋愛の何が現実で何が虚構かとcategoryを分けることはまったく意味がナイ。それは意識があって無意識があるように、また、原子核が陽子と中性子と電子によって成り立っているように、ひとつの関係の上に了解しなければならないものだということになる。
イソップ童話はそれぞれが教訓を含んでいる物語だが、その中に『狼少年』の話がある。(例の「狼少年ケン」じゃ、ありませんよ)。この話の教訓は、いつも嘘をついているとほんとうのことをいったときに、誰も信用してくれませんよ、誰にも信用されませんよ、というものだが、法華七喩(ほっけしちゆ・法華経に説かれる7つのたとえ話)の一つに三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)というたとえ話がある。かいつまんでいえば、ある長者の屋敷が火事になる。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気がつかない。そこで、長者は、子供たちに「おまえたちが欲しがっていた、三つの玩具が外にあるよ」と嘘をいって子供たちを導き、救い出すことに成功する。これを、イソップの童話をもじって活用すれば、ある時、村に一大事がせまっていることを、少年は村人に報せようとするが、子供のいうことなど大人が聞くワケがナイ。そこで「狼が来た」と嘘をついて村人を逃がすことにした。これは世間でいうところの「嘘も方便」というものだ。
つまり、嘘というものも、関係の上では事実(真実)に至る道程となることを示しているのだが、fiction(虚構)というものは、それ自体に現実に至る関係性を持っている。何故そうなるのかは、虚構というものが、必ず現実から始まって創られているからだ。贋物のダイアモンドも、ほんものに似せて創るのは、アタリマエのことだ。
ところで、私は、ここで、虚構は嘘から事実(真実)至る道程だなどと論理を展開しているワケではナイ。両者の関係性について述べているのだ。ふつう、虚構に携わるものは、多く前者の行程を信じている。しかし、虚構と現実の関係は行程ではナイ。数学の発明、あるいは発見の中で、最も大きなものは、ゼロ(0)と虚数(i)だ。何もないという意味でのゼロ(0)は現実には存在しない。またマイナス×マイナスの乗算がマイナスとなる虚数(i)も現実には存在しない。しかし、この二つのアイテムがなければ、現代数学は崩壊する。もちろん、量子力学もまた記述不可能になる。
虚構と現実を説明しやすいのが複素数だ。複素数は任意の二つの実数 a, b に対し a + bi の形で書かれる数のことだ。なぜ虚数をiと記すのかというと、このiはimageの頭文字だからだ(正確には imaginary number )。つまり、虚数そのものは想像力だと思えばイイ。これを x + iyとして 座標(x, y)をとれば、複素数は平面と考えることができる。これが複素平面だ。複素平面では、x 座標に実部、y 座標に虚部が対応し、 x 軸のことを実軸、y 軸のことを虚軸と称する。この実部を「現実」だと考えれば、複素平面は「虚構」と考えて差し支えないと思える。ということは、現実と虚構との関係においては、圧倒的に虚構の場のほうが広いということになる。ただし、その虚構は、現実と密接な関係を持ち、それ自体では成立しない。この関係性には、もう少し詳細な解説が必要だが、それは『恋愛的演劇論』の本論にゆずる。

2012年11月 8日 (木)

一から出直さない

「no side」というのは、もともとラグビーの試合終了のことだ。単に試合が終了したということだけではなく、試合終了すれば敵味方なしという意味があり、ここから発展して、それまでのことは「一切チャラ」にするということに用いられる。日本人はよく「一から出直す」というコトバを口にする。これもno sideと同様だが、いささか覚悟、別の表現でいえば、「腹をくくる」というと同意になる。ところで、「一から」というのはよくよく考えてみると、ちょっと妙だ。つまり、「一」という数量があるのだから、まったく全てを「チャラ」にしているワケではナイことになる。日本人には、0(ゼロ)の概念がなかったワケではナイが、0(ゼロ)を「無」というふうにすると、仏教哲学に混同してしまうゆえ、敢えて「一から」と述べたとかんがえたほうがイイ。つまり、「一から出直す」という意味は、ほんとうは「ゼロから出直す」と同意ということになる。0(ゼロ)という概念は、いまなお難しい概念で、その発明はインド数学だが、先述した仏教哲学においては、0(ゼロ)はほんとうは「無」ではなく、「空」とされる。般若心経の「色即是空」を「色=物質」は「何もナイ」というふうに訳すのは適切ではナイ。そうすると、直截に老荘思想と同化してしまうからだ。仏教における「空」は、老荘思想と似てはいるが、空間を示すのではなく、つまり空っぽをいうのではなく、物質と物質の結びつき、つまり関係(因縁)を示すと理解したほうが、般若心経も解きやすい。関係(因縁)は目にみえない。つまり「空」なのだ。従って「色即是空」は「物質は関係(因縁)によってしか成り立たない」と邦訳したほうがイイ。このような観点から「一から出直す」を問い直せば、それがno side「一切チャラ」ならば、「一切の関係をゼロにしたところから始める」というのが適切だ。数学的にも、ゼロ(0)は垂直軸と水平軸との交点だ。それ自体に実体はナイが、対称を結んでいる、関係させている点とかんがえられる。
以上、何がいいたいのかというと、「一から出直す」というのは、ほんとうは「関係を新たにして始める」ということだ、ということが、いいたいだけだ。「出直す」のではなく「始める」というのは、初期設定を変えるということになる。途上で初期設定が換えられることは、イアン・ブリゴジンらの研究による「散逸構造論」で、科学的根拠を与えられている。
マチガエれば初期設定から、また始めればイイ。それだけのことだ。

2012年11月 7日 (水)

帰還

作業を含めると事実上8月から始まった、伊丹での仕事(北村 想の座標/現在)がやっと終わって、名古屋にもどって来た。少々疲れているのはやむをえないので、しばし休憩してから、また、ここは店開きとさせて頂く。
アパートのほうは、念願の猫を飼うことになった。通い猫のようなもんだが、それも縁。合縁奇縁というものだ。(私はずっとこの合縁を愛縁だと思っていたが、仏教関係のコトバに愛が入るのは、なる程かんがえてみると、変だわな)。
他に特に変化はナイ。何も彼も渡世だ。アメリカ大統領は、オバマ再選らしいが(テレビを観ないので詳細はネット情報以上のことは知らない)、その理由として、たいていのマスコミはオバマの平等主義を挙げるだろうが、もちろん、それは間違いではナイのだろうが、ほんとうのところ、選挙民は、いわゆるアメリカ貧困層からの出兵率が低下したのに好感を持ったのだと思う。とはいえ、オバマ大統領はノーベル平和賞を受賞したアトも、世界に米軍基地を増やしているし、局地型戦争は続いている。これがロムニーだと、また一発やらかすんじゃないかという警戒感があったことも否めない。
日本は相変わらず、尖閣、竹島だ。これで気を良くしているのが日本の右翼(派)だけだというのも皮肉なもんだ。竹島くらいで、韓国は何のいいがかりをつけているのか、日本国民は屈辱に耐えている、という右派のいいぶんは、彼らのいう日本国民とやらの、現在まで連綿と続く在日韓国人差別を、みてみぬふりしているに過ぎない。彼らのお祭りに対する私の感想は、勝手にやってりゃいいんじゃないの、だけだ。政治は国境を戦車でしか越えられない。しかし、文化文明、芸術表現、は、少なくとも創造営為で越えるべく慎ましやかな努力を惜しんではいない。
いまほど絶望や虚無に身を横たえることが、楽で安全で安心な時代はナイ。何故なら、希望は裏切るから。希望さへ持たなければ、裏切られることはナイ。そういうことをもう、若者や子供や老人までもが、よく知っている。絶望や虚無は現実的だが、希望は常に陳腐で非現実的だ。しかし「虚構」は虚無や絶望ではナイ。絶望や虚無を実数線に例えるなら、虚構は複素数平面だ。これから、そういうことも含めて、さて、またぞろエンゲキ渡世が始まる。(ちょっとカッコ良すぎか、ナ)

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