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2012年10月28日 (日)

憐れんではダメだ(改訂)

「自分を憐れむように他者を憐れむ」が仏教の教えなら、キリスト教は「自らを愛すがごとく隣人を愛せ」だ。どっちも、ダメだと思ったほうがイイ。「憐れに思え」「愛せ」などというのは、高慢だと自戒したほうがイイ。ここは「憐れを思え」「愛されるように」が正しい。一見受け身のようだが、相手の憐れを自らにとって返してきて、自らの憐れと重ねるときこそ、ほんとうに相手の憐れを知ることが出来る。
たしかに「憐れ」は、この世、人生、世間に存在するが、ただ憐れで終わっていては、ヒトとして能がナイ。憐れは、生きる強さの前提にしなければならない。逆にいうと、「強さ」の元には常に「憐れ」がなければならず、それゆえ、「憐れ」のナイ「強さ」はほんとうの強さではナイ。単純に自らの「強さ」を他者の「憐れ」の上に置いてはダメなのだ。自分自身の強さは、自分自身の憐れを自覚してこそ成立する。そのときに、初めて、他者の憐れと自身の憐れとは、その「強さ」において遭遇する。彼のひとが、強いのは、自身が強いのは、その憐れがあるからこその強さだと、思わなければ、単なる同情としてしか憐れと強さは現出しない。従って「自らを憐れむ」ことを以て、強さとするのと同じく、他者もまた、自分と同じように強いのだと信頼するべきだ。ひとは弱い、しかし、強いというのは、ひとは憐れだと等価でなければならない。ひとは強くあろうとするが、そのために弱さを自覚してしまい、そこに、憐れがあるのだ。「同病相憐れむ」で終わっては何の価値もナイ。そこから、すべて、生活するというのはそこからだ。

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