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2012年10月19日 (金)

私が脳死に反対する理由

私は臓器移植という医療に反対するものではナイ。角膜移植を含め、生体腎移植、肝移植にはむしろ、それでイイと思っている。ただ、脳死臓器移植には、賛成しかねる。その理由は単純なもので、私は脳死をヒトの死というふうに認めていないからだ。脳の欠損で、ヒトは植物人間とかいうふうに呼ばれることがある。喋れない、みえない、だ。しかし、聴力は違う。聴力は感覚系統で最後まで生きている。よくいわれる幽体離脱という体験はこの聴力の他感覚カバーからきているとみてほぼ間違いない。聴力は、演劇の場合、演技において視力よりも大きな力を持っている。何故なら、せりふは聴力のたまものだし、空間把握は、視力とともに、聴力に依るところが大きい。時間把握は聴力だ。視力がデジタルなのに対して、聴力はアナログ的に空間と時間を把握していく。これら感覚機能は、意識と呼ばれるものに結びつく。もし、脳死がヒトの死であるならば、意識というものが死んでいなくてはならない。意識が死ぬということがあるならば、意識は脳内の何らかの物質としか考えられないことになる。つまり、脳のある部分が死ぬと意識がなくなるのならば、意識とはその部分という物質になる。物質であるならば、外部に取り出せることになる。意識を脳の外に取り出せるものかどうかは、医学の問題ではなく、もはや常識的な問題だ。そんなことは不可能だ。そうすると、脳死と意識とはある関係を持ってはいるが、直截なものではナイ。だから、たとえ脳死であっても、意識は残っているということは充分ありうる。具体的にいえば、脳死の状態でも聴覚は生きていて、そのぶんの意識は生きているということになる。何を脳死とするかは、脳波などの判定でなされるだろうが、私は聴力の判定をすべきだとさへ思っている。聴力ほど不思議なものはナイ。耳鳴りで悩んで聴力神経を切断したひとに、耳鳴りだけが残ったという話は存在する。聴力は視力と同様に、聴くことによって、像をイマージュすることが出来る。視力が実体を観て、それを変容させて像にするならば、聴力は実体を観なくとも、像を創り出す。あのアホ映画は、それすらアヤシイものに描いてしまったが(単なるロマンのようにしてしまったが)、意識は聴力に残るのだ。意識が残る以上、脳死などというご都合的な医療の犠牲にはなりたくはナイ。静かに自分か死んでいく事態を聴力による意識によって感じながら死んでいくのは、臨終の者の権利だろう。

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