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2012年10月17日 (水)

待機説法

釈迦の説法(教え、仏教の説き方)は待機説法といわれる。いうなれば、man-to-manの方法だ。大講堂に信者を集めて講壇に立ち、大風呂敷をひろげる、いわゆるいまのさまざまな新興宗教集団の方法とはまるで違う。待機説法の強みは、ひとりひとりそれぞれの悩みに適したコトバで応えていくことだが、弱みは、「私とあんたとでは聞いたこと違う」ということになりかねない。仏教の経典が幾千とあるのはそのせいなのだが。これに対してイエスの場合は、辻説法になる。少人数を相手に、ちょうどテキ屋のように語る。しかし、これもまた、場所と時間で、「聞いたことが違う」ということは起こりうる。聖書の矛盾についてハリイ・ケメルマン(『九マイルは遠すぎる』のミステリで知られる、ユダヤ教の大学教授にして、作家)は、「聖書の内容に矛盾が多くみられるのは、イエスの説法が当時の方法論であった、辻説法の寄せ集めだからだ」と、けっこうシビアに述べている。しかし、チェスタートン(『ブラウン神父』シリーズの作家にしてカトリック教徒)は、聖書の矛盾については、「聖書に矛盾がみつかるとき、必ず、それに呼応するようにこの人間社会にも矛盾がみつかる」と、聖書と人間社会の対応を、その答えにしている。みかけでいえば、ヒトは、独りでいたり、1対1でいたり、大勢多数の中にいたりする。独りでいるときも、まったくそのココロが自分だけに向かっているときもあるし、環境に対応しているときもあるし、また、そのカラダに向き合っていたりしている。さらに、ヘーゲル的にいえば、独りでいるときも、独りでいる自分と関係している独りの自分が出現することになる。たとえば、何かに悔やんでいるとき、そういうふうに悔やんでいる自分に悔やんでしまうことが多いのだ。もちろんこれは連鎖するし、それを弁証法では精神(観念の)運動として捉える。この運動は観念論であろうと唯物論であろうと違わない。唯物論は観念を認めないかのように誤解しているひともいるが、唯物論は人間の観念(精神)運動を重視している。
さて、たとえば、大講堂に集まった信者に対して、演壇の教祖が「みなさん、アルコール依存は治ります。酒を飲まなければ、必ずっ」と声高にいって机を拳で叩いたとする。まあ、それに異存のあるものはナイ。アタリマエのことだから。しかし死刑囚に「健康のために毎日15分ほど散歩すること」という一日の時間割が刑務所で組まれているとする。なるほど、毎日15分のwalkingは健康上、よろしい。死刑囚は死刑になるまでは健康でなければいけない。私たちは生まれてきた以上、死ぬことの宣告を受けているのだから、アルコール依存で酒をやめず、飲み続けて肝臓をやられても死ぬし、たとえ一日15分のwalkingをしたとて、死刑から逃れられるということはナイ。従って、どんな待機説法、辻説法であろうと、つまるところは、ヒトの死を前提としている。ヒトの平均寿命は伸びたが、それは新生児の死ぬ確率の減少にしか過ぎず、健康寿命は意識的に維持しなくてはならない。私も常人同様、健康には気を使っているが、それは長生きするためではない。やるべきことをやり終えるまでは、ある程度の健康が必要だからだ。やるべきことが終わったら、惚れた女の膝枕で、明るい陽ざしと涼しい風に吹かれながら、出来れば縁側で眠るように死にたい。若い者はゲヘヘと笑うかも知れないが、こういうことは六十歳くらいにならないと、ワカランことだ。

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