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2012年10月 9日 (火)

黒蜥蜴いや光と影

『文学賞の光と影』(小谷野敦・青土社)なんてのを読んでいると、小説なんざ書きたくなくなってくるナ。豊﨑由美さんの『文学賞メッタ斬り』を読んだときは爽快感があったけど、小谷野さんのはともかく重箱の隅をつつくような陰湿さで、しかしそこがオモシロイところなんだけど。私の肩書欄には(劇作家・小説家・エッセースト)とあって、演出家は入っていない。もちろん、演出家ではナイからだ。自作戯曲の演出をするからといって、演出で食ってるワケではナイ。ところで、戯曲やエッセーを暇つぶしに書くということは全くナイが、小説は暇つぶしに書いている。書くことが好き(というより快楽)だからだ。まあ、小説などどこの出版社も買ってくれないし、注文もないし、スパイ小説からミステリまで、書き上げたら、棚の上。
だいたい、文学(小説)なんてのは、暗いからなあ。どういうワケか、暇つぶしに書いていても、通俗以外は暗くなる。小説を読まないのも、暗いからで、つまるところ人間関係というのは暗いのだという証明のようなものばかりで、そんなものは、ふつうに生きていてもワカルことで、表向きは光だが、光があれば影が出来る。で、ヒトはどういうワケかこの光のほうに立っているのを[虚構]に扱い、影のほうが自身のほんとうの姿だと思うようになっている。私は、どっちでもイイと思う。というより、どっちだってそのヒトであるのには変わりない。チェーホフの本業は医者だったから「風邪をひくだけで世界観など変わる」という名言を残しているが、ヒトの気持ちなど3分もあれば変わる。私の発明した「アカルイ虚無」というのは、たぶん、そんなことと関係がある。(発明したコトバといえば、「私戯曲」というのを、こないだ、かなり若い劇作家が、まるで自分の戯曲作法のように語っていたが、おい、そりゃあ、私が、15年は前にやったこったぜ。私小説があるように私戯曲があってもイイと、あの頃、インタビューに答えている)。暗くなったってイイ。太宰は『右大臣実朝』で、暗いうちに滅びはナイ、平家はアカルイ、アカルサは滅びの兆しだ。と、述べているんだから。だからただ、アカルイだけではダメだと思って「虚無」を足した。「虚無」も忌み嫌われるコトバではナイ。数学には「虚数」もあれば「無限」もある。市川雷蔵の眠狂四郎がイイのは彼の姿勢が虚無だからだ。「虚数」の場合、複素数平面においてマイナス×マイナス=マイナスで、なんだか心許ない気がするが、その数は確かな線上に存在する。存在はするのだ。これを贈与交換に置き換えると、贈与するのは自分から何かマイナスすることだが、相手方もその贈与に対して、贈与を返す、つまりマイナスすることになる。で、結果がマイナスなら、えらく損な気がするが、どちらも何かを失うということで、結びつくというのは、この間違った資本主義経済の社会において、重要なことだ。なぜなら、現行資本主義は、ともかく増やそう奪おうだからだ。尖閣諸島だって竹島だって、どっちも「失う」ことで決着つけていいんじゃないの。つまり、どっちのものでもナイことにしましょう、だ。仕事でも生活でも、ミスしたり衝突したり、そういう場合に、どっちのせいでもナイことにしましょう、でいいんじゃないのか。「あんたのせいよ」「わたしのせいね」が、イチバン、あかん。何かを失うということは、新しく何かに向かっていく希望につながる。先だっての地震がそうだったじゃないか。おそらく希望というものは、何かを失って初めてそれを得る方法が模索出来るものだと思う。

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