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2012年10月19日 (金)

悲しき○

昨日はアホ映画をボロクソに書いたが、私は「悲しさ」のナイ映画はのきなみ好きではナイ。それ以上に悲しみを作った映画は大嫌いだ。まあ、繰り返しすのはよすことにして、さて、若い劇作家、あるいは老練なものも含めて、劇作というのは「想像力」がものをいうと勘違いしている。これは錯誤でしかナイ。想像力が最もさかんな若者の書くものは大目にみることも出来るが、それは大目にみているだけで、やはり錯誤は錯誤、誤解は誤解でしかナイ。
およそ劇作というものは「想像力」などアテにしてはならない。アテにするのは「観察力」というもので、これはいくらでも鍛えることが出来る。観察力は「選択眼」につながっていく力だ。選択眼というのは、さまざまなものから何か一つを選びとることだから、他の多くは捨象される。つまり、何を選ぶかが観察力というものだと、論理的にはそうなる。画家の岡倉天心(だったと思うが)は食えない、つまり売れないとき、「売れるような絵ならいまでもいくらでも描けるが、目先の銭に拘ると一生食えなくなる」と、頑固に自身の信条を通した。何が自身の描くべきものかを選択していたのだ。同じ画家のピカソも、スケッチブック数冊に○だけを描いている(これはブログで何度も書いた)。一つ○を描く。それを観察する。選択する。その○が、彼の絵の何処に反映されたのかは素人はいうまでもなく、鑑定家にさへワカラナイ。
「悲しさ」を観察力でみぬき、そこからある悲しさを選択するのは難しいことだ。だから器用な物書き、劇作家たち、シナリオライターたちは、一般的、普遍的に悲しいものを書く。主人公のどちらかが不治の病ものや、不幸を書けば、悲しさを書いたことになる。最近の観客はレベルが低下しているから、これは悲しい演劇、映画なんだから悲しいんだろうと、悲しみの実体ではなく、作り物でよしとする。また、そのほうがいまの世間を生きるには楽なのだ。繰り返さないとしたが、繰り返してしまうが、昨日のアホ映画でも、どうだ悲しいだろう調で、ラストシーンではヒロインが泣く。ほんとは泣いたらアカン。悲しさというものは、あそこで、ヒロインがどう悲しみを堪えるか、でしか湧いてこないものだ。最近の女優は、演技で泣けることが、何か演技の実力だとでもいうふうに勘違いなさっている。ヒトはほんとうに悲しいときは泣かないものだ。理由は二つある。先述のようにそれを堪える。耐える。というもの。もう一つは悲しみのあまりの深さに涙すら出ないというもの。かつてのテレビドラマの名作に『泣いてたまるか』(渥美清さん主演)てのがあった、主題歌はたしか、♪空が泣いたら 雨になる 山が泣くときゃ 水が出る 俺が泣いても なんにも出ない 意地が涙を 泣いて 泣いてたまるかヨ 通せんぼ
だったと思う。
私が、役者をみるとき、やはり観察力と選択眼というもので「悲しさ」を観ることを尺度にしている。悲しさを持たない役者はダメだ(まったくの若い新人さんは別として)。このひとの悲しさは奈辺にあるのだろう。それが、その役者の裏っかわにみえるとき、私は少しほっとする。

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