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2012年10月20日 (土)

幼女

紫式部の『源氏物語』は通読程度に読んだことがあるが、そのときの感想は、主人公光源氏の女性遍歴の絶え間なさではなく、よくもまあ、恋というものには多くのパターンがあるもんだ、という妙な驚きだった気がする。で、そのことを書くのではなく、「紫の上」は源氏の養女となって、のち、なるようになるのだが、最初に源氏に出逢ったのは10歳のときだ。源氏は、すぐさまそのオカッパ頭の少女(幼女)を愛してしまうのだが、源氏は皇族で、皇族は多婚がふつうだったにしても、いくらなんでも、そのとき(出逢ったとき)にヤッちゃったら、当時はどうだったのか知らないが、いまでは犯罪になる。性犯罪、幼女姦淫、変質者、変態、、、n。成人コミックの町田ひらくは、たいていそのほうを描くのだが、私は町田ひらくのファンだから、成人コミックでもこのひとのマンガだけはたまに買ってた。その頃の友人に町田ひらくを勧めて読ませたら「痛々しい」という感想が返ってきた。マンガ評論家の村上 知彦(チャンネルゼロ)さんとは親しくしていて(このひと、あだ名がギャーさんというんですけどね)、だいぶ前になるが、大阪で顔を合わせたときに「想さんは町田ひらくが好きなんだってね」と、とくにそのアトは何も語らず、面白がってるのか、関心があるのか、なんだかワカラン笑みで、私は何をどういわれたのか、いまだにワカラナイ。
町田ひらくのあるシリーズ(だと思うんだけど)に、幼女(少女)の相手が老人ばっかというのがあって、それは、何かの共同体の儀式で、少女を贄としなければならない、てな内容だったと思う。(この辺、「思う」が多いのは、殆ど資料以外の書籍は実家に置いてきたので確かめようがナイからだ)。人間、いくら齢を重ねても好々爺ばかりになるとは限らない。こういう儀式は別にして、少女(幼女)を姦淫するというのは、現代では、ある人格障害、人格破綻、というビョーキとしてしか扱われない。つまり狂気だ。こういうシステム、シフトに果敢に挑んだのがフーコーだということは、ご存知のことだろうが、フーコーの疑義に倣って、こういう「もし」を命題にしてみる。「もし、あなたをカウンセリング、もしくは治療にあたっている精神科医が狂っていたら」だ。フロイトの功績は無意識の発見だということに異論はナイが、精神分析の方法は、ある精神医学を基準にした対応型のシステムからはみ出していない。では、この医師は患者をどうしたら、治療完了となるのだろうか。このようなシステムは、卑近な日常にも数多みられる。「常識」「正常」から逸脱したかのような者に対して行われる、教育や説教の数々だ。フーコーは「知」とは「権力」のことだと喝破したが、もう少し丁寧にいうと、知は力なり、かな。フーコーはあるインタビューに「私は抗うことの出来ない快楽の中で死にたい」と答えている。そりゃいいな。快楽主義者といわれたエピクロスの快楽は、貧弱で節操のない快楽ではナイ。疲弊、脆弱を生じさせるものではナイ。しかし、現代の知は、道徳の衣を纏いながら、その権力を世間にまで流布させている。私どものような物書きは、元来、反社会的な存在なのに、テレビにコメンテーターとして登場するなど、笑止、いやこれこそ狂気の沙汰じゃないのか。チェスタートンの『正統とは何か』はその作法であるパラドクスとしていうならば、非常識だからこそ、常識や正常の危険さを一刀両断に斬り棄てているのではないか。そうすると『源氏物語』の面白さは、まさにしみじみと狂っている主人公、光源氏の非常識な所業あるところにしかナイ。

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